コロサイ1:1ー14

御子による贖い

2021年 1月 3日 主日礼拝

『御子による贖い』

聖書 コロサイの信徒への手紙1:1-14 

 

 明けましておめでとうございます。皆さんは、クリスマス以降の休みの期間をどのようにお過ごしでしたでしょうか?私自身子供のころを思い出すと、教会行けばお菓子がもらえると親に言われて、12月25日の午後に近くの教会に行ってみると、何もしていません。東北では冬休みの方が長いですから、12月25日から1月15日くらい(夏は7月22日から8月18日くらい)なので、クリスマスからは休みになっているわけです。東北は寒いですが、北海道みたいに部屋の温度を30度にするような習慣はなく、こたつを使ってしのぐわけです。そして、大みそかには日本レコード大賞と紅白歌合戦のテレビ番組を見ると言うのが年越しの習慣でした。そのころと今を比べると、年越しと言う家庭内行事や「ごちそう」の準備はほとんどしなくなったと思います。なにしろ、正月から店が開いているので、食べることに困らないものですから、家に作り置きしておく必要が無いのですね。経済活動が盛んになると、いろんな習慣がいつの間にかに変わるものなのだなと思いました。ところで、今日は、クリスマスツリーが飾りっぱなしですが、来週には片付けたいと思います。欧米では1月までツリーを飾るのが普通で、1月6日の顕現日(バプテストでは、記念日にしていない)には片付けるようです。日本では、門松を飾る関係でしょうか?25日を過ぎるとさっさとクリスマスツリーを片付けてしまいますね。

 

 今日はコロサイの信徒への手紙からみ言葉を取り次ぎます。コロサイの街は、現在のトルコで、小アジアに位置しています。

この、コロサイの信徒への手紙はパウロが書いたものですが、どういうわけかパウロとテモテが差出人になっています。と言うのは、パウロはローマの獄中でしたが、テモテはエフェソスの教会で(主教として)指導していました。ですから、コロサイの教会の問題に気づいていたテモテが、パウロに頼んで、手紙を書いてもらったのかもしれません。テモテは、パウロの第三次伝道旅行の時に同行した人で、たびたびパウロへの良き協力者として聖書に取り上げられています。そういう関係から、二人の名前で手紙を出して、コロサイの教会を正しく導こうとしたと考えて良いと思います。

 

 パウロ自身が、このコロサイで伝道したという記録が使徒言行録にはありませんし、コロサイの地名は、ここ以外には聖書に出てきませんので、パウロとコロサイの教会のつながりは、1:7に書かれたエパフラスという人物にあるようです。伝承によると、エパフラスは、コロサイ出身でパウロを助けて働いた人です。パウロの指導のもとで、町々に伝道して、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を建設したということですから、コロサイの教会は、パウロの同労者が建てた教会だったわけです。

 これもまた伝承ですが、エパフラスは、ローマで獄中にあったパウロを訪ねて指示を求めますが、パウロと共に牢獄の中に閉じ込められました。もともとは、エパフラスがパウロの指示を伝達しようとしていたのですが、一緒に投獄されたので、それはもはやできません。その代わりに、パウロが手紙を書いたと思われます。同じ獄中書簡であるフィレモンへの手紙1:23にこのように書かれています。『キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。』

これらの経緯をまとめますと、エパフラスは、エフェソにいるテモテにコロサイの教会の問題を伝え、ローマで投獄されていたパウロに指示を仰ぐためにローマに向かった。そしてエパフラスはパウロと同じ様に「イエス・キリストを神として信じている」ために捕まりました。そこでパウロは、コロサイの信徒の信仰のために、キリスト教徒としての生き方を書いた手紙をしたためて、そして信頼する同労者ティキコ(コロサイ4:7本書の運び手であり、パウロが手紙で伝え切れなかったことを人々に伝えるという使命を負っている。)に手紙を渡し、コロサイの信徒に書ききれていない部分を説明するように託したという事です。

 その中心は、み子イエス・キリストによる、赦しのことです。

 

 クリスマス礼拝をして2週間経ちました。飼い葉桶に寝かされ布にくるまれた主イエス・キリスト。まさに今が、そのイエス様の姿を思い浮かべ、礼拝するときであります。マタイによる福音書には、占星術の学者の記事があります。

マタイ『2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。』

 占星術の学者たちは、ヘロデ大王に会ったあとベツレヘムの馬小屋を探し当てて、イエス様への贈り物を捧げました。黄金は金ですし、乳香は名前の通り香料(樹脂を焚くと良い香り、薬としては緊張をほぐす効果など)ですので、贈り物として理解できますが、問題は没薬です。ミルラと言う名前の、樹脂からできた鎮静剤なのですが、古代エジプトではミイラを作るときに遺体が腐らないように燻す時に、このミルラが使われていたそうです。つまり、イエス様には生まれた直後から、すでに「十字架の出来事が示され、その準備が始まっていた」、ということです。飼い葉桶のイエス様は十字架の主イエス・キリストと全く同じ方なのです。イエス様は、もっともみすぼらしい場所にお生まれになり、そして私たちの罪を贖うために十字架にかけられたのです。

 イエス様は神様であるにもかかわらず、それらしい生まれ方をしませんでした。大きな屋敷ではなく、馬小屋に、そしてベッドも与えられずに、飼い葉おけの中に寝ていたのです。そして、私たちに寄り添ったイエス様。イエス様はそのために、もっとも貧しいものの友として生活したのです。そして、神様であるにもかかわらず私たちのために、十字架にかけられたのです。イエス様は、神様であるのに、最も低い者の様に生まれました。それは、神様が私たち罪人に寄り添おうとしているのです。神様は私たちに無条件に和解をもとめ、御子をこの世にお降しになったのです。

 

 私たちキリスト教の基本的な教えは「イエス様が私たちの罪を贖ってくださった」ことです。今日の聖書では1章の14節のところです。

 

コロサイ「1:14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

 

ここでいう贖いの意味は、「罪の赦し」のことだとパウロは説明しています。「贖い」とは、一般的な日本語では、「善いことをして、罪滅ぼしをする」ことや、「罪や負い目を金品で償(つぐな)う」こと、さらには「肩代わりする」ことですが、聖書特有の「贖い」には特別の意味があります。それは、「生贄によって罪の償いをする」という意味です。生贄は、聖書にはしばしば出てきますが、新約聖書では、特にイエス様が十字架上の死によって贖われたことが中心であります。そのイエス様の贖いによって、私たち人間の罪が赦されたという事が重要な教えになっています。イエス様の十字架の出来事によって、私たちは罪人であるにも関わらず、神様と向き合うことができるようになった。そのように教えているのです。

 

 私たちクリスチャンが信じるのは、このイエス様の罪の贖いの教えです。コロサイの教会は、その点がぶれてきたのでしょう。このイエス様の贖いが強調されなくなってきたのでは、キリスト教ではなくなってしまいます。そこでパウロは、イエス様によって父なる神様と私たちとの関係が作られ直されたと教えました。神様との正しい関係を結ぶためには、イエス様の贖いによって私たちの罪が許されていることを、受け入れなければなりません。神様との間には、イエス様にいつも居ていただかなければ、罪の許しも、導きも得られないのです。そういう意味で、イエス様が必要なのです。「イエス様の十字架による贖い」は、信徒がクリスチャンとして立つ一番基本的なところです。

 

クリスチャンとして立つとは、どのような事なのでしょうか? すぐに教会では ああしなければならないとか、クリスチャンはこうあるべきだという言葉が飛んできそうですが、そういうことではないと思います。この立ち方、教会やクリスチャンとしての立ち方とは、「イエス様の十字架による贖い」に相応しくない自分に気が付く事だと考えるからです。イエス様の贖いに相応しくない、そして、イエス様に救われた その結果私たちは「何かできるようになった」わけでもないのです。立派にクリスチャンらしく立つこともできないこの私達を、イエス様は顧みられた。この感謝は、顧みられることに「相応しくない自分」 であるからこそ深まります。なぜなら、自分が「イエス様の十字架の贖い」に相応しいと思ったのであれば、私たちは、すぐにイエス様のことを忘れてしまうでしょう。反対に、私たちが「イエス様の十字架の贖い」を忘れないのは、私たちがイエス様の贖いに相応しくないことを知っているからなのです。

ですから、「イエス様の十字架の贖い」に相応しく立っていることを誇るよりも、相応しくない自分であることを受け入れる方が安心して、肩の荷を下ろした気分になるのではないかと思います。イエス様の平安がそこにあるのです。

 

 イエス・キリストの十字架の出来事は、人間の罪、「人間の力ではどうしようもない闇の部分、神様に対して真正面から向かい合えず、さらには神様を裏切ろうとする、逃れられない心」 そのような人間の罪を赦すのです。その罪はイエス・キリストご自身が担ってくださったのです。イエス様は生贄の小羊として、そこで血を流されたということによって、一度限りで無条件に私たちの罪を赦されたのです。本当は人間一人ひとりが負わねばならない罪であるのに、イエス・キリストが身代わりになられて、自らが生贄となられたのです。この十字架の出来事に与って、神様と私たちの間にイエス様がおられることによって、初めて神様と向き合うことができるのです。

 

 今日は、お生まれになったばかりのイエス様のお話をしました。イエス様は、生まれた時、ご自分の使命を知っておられたのでしょうか? 知っておられなかったにしても、事実、遠く占星術の学者が尋ねてきて、葬りのための薬を捧げました。すでにこの時、イエス様が十字架にかけられて、その背中に私たちの罪を負っていらしたこと、そのようにして私たちを贖うことが、神様によって予定されていたのです。この様にイエス様の尊い犠牲の上に、私たちは赦され、そして平安に与っています。その、喜びを 周りの人に分かち合えると良いですね。私たちには、大きな力はありません。イエス様がいまここにいてくださいます。この教会の上に、聖霊が働くことをお祈りしてまいりましょう。