2025年 1月 26日 主日礼拝
『このとき信じた』
聖書 ヨハネによる福音書2:1-11
今日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書だけにある「カナの婚礼」です。こういう奇跡の話について、いろいろな聞きようがあると思いますが、ありえない話だとか、作り話だとかと決めつけないで、読むようにしてください。なぜなら「著者にはそのように見えた」ことだけは、確かだからです。この福音書の著者は、イエス様の弟子ヨハネです。この福音の物語は、ヨハネから見た景色が描かれているのです。その一例が、著者ヨハネが、名乗ることなしにこの福音書の中に登場することです。今日の聖書の冒頭の「三日目に」もヨハネの視点で書かれています。
『2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。』
イエス様の最初の二人の弟子(1:37)は、この福音書によると、アンデレ(1:40)とヨハネです。もともと二人ともバプテスマのヨハネの弟子(1:35)でした。そして、イエス様の弟子になって3日目に、カナの婚宴があったわけです。要するに、著者であるヨハネがイエス様に出会い、弟子となりました。そしてその3日目に、「イエス様のしるしを見た」ことをヨハネが書いたのです。ヨハネがイエス様と始めて会ったのが、ガリラヤ湖から死海に流れるヨルダン川ですから、そこが上流側であったならば、カナまでは2日以内に行けます。その婚宴に、弟子になったばかりのヨハネも呼ばれました。ですから、イエス様とかなり近い人の婚宴だと言えます。それに、イエス様の母もそこにいて、家の召使に指示をしていますから、イエス様の親戚の結婚式だと思ってください。ユダヤの婚宴は2回あります。最初に婚約式を花嫁の家で行います。そして、その婚宴のクライマックスが、花婿が渡したぶどう酒を花嫁が受け取るという儀式です。結婚の申し込みと、受諾を意味しますので、これでめでたく結婚が決まって、結婚の準備に入ります。そして、婚約期間に花婿が住む場所の準備と、結納金の準備をします。準備ができると、花嫁を迎えに行き、花婿の家で結婚式となります。ということで、このカナの結婚式は、招待者が花婿なので結婚式の方でしょう。
『2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。』
そもそも、結婚式でぶどう酒が足りなくなるでしょうか? ユダヤの結婚式は7、8日続くそうですが、招待した客が飲みきれないほどぶどう酒を用意するはずです。よほどたくさん飲む客だったのか、客の数がすごく増えたのでしょうか?確かに弟子たちの分は人が増えました。ここまでに出てくる弟子は、アンデレ、ヨハネ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルと5人となっていますから、この5人のほかにも大勢が婚宴に来たのかもしれません。そういうわけで、「ぶどう酒がなくなりました」と 母親がイエス様に言った理由は、2つありそうです。そもそも、イエス様が弟子を連れてきたから足りなくなったので、自分で何とかしなさいということが第一の理由です。当時の住宅事情は、6畳ほどの部屋が2つと台所兼作業場所、そして家畜用の部屋が1つ、そして中庭です。その家の中に10人以上を招くわけですから、さらに弟子の5人が増えるのは、結構ぎりぎりだと思われます。第二の理由は、母マリアが、イエス様に「しるし」を示すように催促したのだろうと言うことです。母マリアは、イエス様の誕生後にも不思議な出来事を体験して心に納めて(ルカ2:19,2:51)いました。だから、この非常事態を何とかできる と思ったのでしょう。イエス様は、断りますが、それでも母は、召使に手伝うように言いました。それは、イエス様の時が来ているとの思いから、しるしを見せるようにとの催促です。著者ヨハネは、イエス様の時がここに今、始まることを宣言しているのです。
『2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。』
石の水がめとは、清めのための水と日常の生活用の水を溜め置きする水槽です。清めのための水は、儀式的な食事の前の清めに使います。手や、テーブル、および食器を清めるためにも、水槽が置かれているわけです。メトレテス(μετρητὰς)とは、約39ℓのことですから、80~120リットルくらい入る大きさです。持ち運びできない大きさなので、水汲み用の小さめの甕を使って水を張るわけです。
『2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。』
宴会の世話役とは、宴会の食事・飲み物を手配し、出し方を指図します。ですから、ぶどう酒が足りなくなったのも、この世話役の手配ミスのようにも感じますが、実質はイエス様の母が取り仕切っていたのだと思います。しばらくして、イエス様は召使の女性たちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言います。そして今度は、「その水がめの水をくんで世話役に持っていきなさい」と指示しました。召使の女性たちは、言われる通りにします。召使の女性たちは、自分たちで水をくんだので、世話役に届けたのは、確かに水だったことを知っています。それが、世話役に届けた時には、ぶどう酒に変わっていました。
『2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」』
ようやくぶどう酒が届くと、世話役は、早速味見をします。この家のぶどう酒は底をついた。つまり、別のぶどう酒を持ってくるはずだからです。この様子から見ると、もし悪い(若い)ぶどう酒だったら、花婿を責めたことでしょう。だから、良いぶどう酒を求めて遠くまで人を出しているうちに、ぶどう酒が底をついてしまったのかもしれません。
一方で母は、「しるし」が起こるのを信じていました。水を運んだ召使たちは、この奇跡の「しるし」に驚いたことでしょう。一方で、世話役は何も気づいていません。花婿も何も知らないわけです。この「しるし」で、もっとも驚いたのは、弟子たちです。少なくとも5人いた弟子たちも、婚宴に呼ばれて参加していました。ぶどう酒が無くなったことも知っています。そして、良いぶどう酒の到着。いったいどうやって すぐに良いぶどう酒を手に入れたのか?を不思議がった弟子もいたでしょう。でも、その弟子たちは、イエス様が水をぶどう酒に変えたところは見てはいません。しかしそこには、水をぶどう酒に変えた「しるし」に立ち会った証人がいました。召使たちです。
さて、奇跡物語を読むとき、そのまま書いてある通りのことが起こったと信じる人もいます。また、有り得ないことが起こる物語については「神話」と評価する人もいます。「神話」と評価する意味は、事実であるかどうか確認できないから、議論をあきらめることです。この事実と神話との評価の違いは、信仰的に聖書を読むことと、理性的に聖書を読む事の違いだと思います。そもそも、「奇跡は起こる」と信じることと、「奇跡は起こらない」との理性による判断は、正反対に聞こえます。しかし、人にはできないけれども、神様ならできる。それを奇跡と呼ぶのならば、「神様による奇跡は起るが、人による奇跡は起きない」ということです。つまり、理性的な面は両者で一致しているのです。そして違いは、神様の起こす奇跡を信じることです。それは、神様を信じることであります。著者ヨハネは、奇跡がカナの婚宴で起こったことを証ししました。このとき、ヨハネはイエス様を信じたのです。ヨハネは、見聞きしたこと つまり事実を書いたはずです。だから、婚宴もあっただろうし、ぶどう酒が切れたのも事実だと思います。そして、召使たちが、水がめに水を注いだのも、水を世話役に渡したのも事実でしょう。また、世話役が試しに飲んだものが良いぶどう酒であったのも事実だと思います。ということは、本当に水がぶどう酒に変わったか、だれかが水とぶどう酒を入れ替えたか・・・どちらにしても、信じられないような出来事目の前で行われたのです。残念ながらこの記事だけでは、奇跡があったのか、手品のような種や仕掛けがあったのか わかりません。しかし、ヨハネは「奇跡があった」と証しをしているのは事実です。ヨハネは、水がぶどう酒に変わった場面に立ち会った。また、イエス様がその奇跡を起こした、と彼は信じた。これらは事実なのです。
一方で、聖書学者の中には「奇跡」が起こったのではなく、何事かを暗示した物語だと考えるもいます。カナの婚宴は、イエス様が初めて奇跡を起こした記念として、これから起こす数々の奇跡を暗示するものだと言うのです。そして、花婿であるイエス様と花嫁である教会の結婚は、イエス様が十字架で血を流す血によって起こされる。ぶどう酒は、このことを暗示したと解釈するわけです。このように物語の中に教えが含まれていることを、難しい言葉で「寓喩」と呼びます。ただ、私は、凝りすぎではないかと感じます。さらに、奇跡があったという前提を否定してしまうならば、この記事は「寓喩のための作り話」だと言うことになってしまいます。私はその考えにはあまり納得ができません。だからもうすこし、純粋に、書いた人が何を伝えようとしたのか?を考えたいと思います。事実、ヨハネはイエス様に出会って3日目にイエス様の奇跡の業を目撃しました。少なくとも、ヨハネの目にはそのように見えたのです。このことを、しっかりと受け止めたいのです。ヨハネは、このときイエス様のことを信じたのだと・・・。ヨハネは、最初の記念すべき「しるし」を福音として書き残しました。ですから、私たちは弟子ヨハネの信仰の証として、 また、このときイエス様を信じた弟子たちの証として、この奇跡の業を受け止める必要があります。イエス様はカナの婚宴で、栄光を現しました。こうして、イエス様による救いの御業が始まったのです。
この栄光の業を喜んで受けとるとともに、イエス様を信じた弟子たちの純粋な信仰に与りたい。そのように、イエス様に祈って求めてまいりましょう。