2024年 7月 28日 主日礼拝
『生きたパン』
聖書 ヨハネによる福音書6:41-59
今日は、先々週の宣教でお話しました「イエス様が湖の上を歩いた」記事(ヨハネ6:16-21)の続きです。イエス様は、カファルナウムの家を出て、寂しい場所に向かいました。過ぎ越しの祭りが近づいていた(ヨハネ6:4)ことから、弟子たちと一緒に主の晩餐を守ろうとしたようです。そこで、5000人の給食の記事が始まります。これだけの人数が、5つのパンと魚二匹(ヨハネ6:9)を食べて満足すると(ヨハネ6:12)、残ったパンくずで籠12個がいっぱいになりました。(ヨハネ6:13)今日のお話は、その5000人の給食の後、カファルナウムに戻ったイエス様を追ってきた群衆との会話であります。そして、ユダヤ人が、躓いたのは、イエス様のこの言葉です。
ヨハネ『6:32 ~「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』
ユダヤ人たちがつぶやいたのは、「モーセがマンナを降らせたように、奇跡を見せてください」(ヨハネ6:30-31)との願いへの、イエス様の答えです。「天からのまことのパン」について「わたしが命のパンである」とイエス様は言いました。つまり、「天から降って来る、この世に命を与えるパンとは、わたしのことである」 と言ったわけです。これは、「イエス様自身が救い主である」 との宣言であります。その言葉にユダヤ人たちは、つぶやいたのです。彼らは、イエス様の癒しや奇跡を見てきています。そして今度は、マンナを降らせるという「しるし」を求めました。つまり、5000人の給食で、5つのパンと二匹の魚に満足したそのしるしを見ていながら、イエス様を信じていないのです。だから、さらに、しるしを求めるわけです。
イエス様は、このように言いました。『6:35わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』 この言葉の真逆でイエス様を信じない彼らは、しるしに渇いたのです。
イエス様の言葉は、このことを批判したものであります。直接的に表現するならば、「あなた方は、しるしを見せてほしい と言った。しかし、しるしを見ても信じないあなたがたは、また、しるしを求める」と言うことです。
つぶやきは、『6:42 ~「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」』 でした。このつぶやきは、イエス様とその両親を尊敬していない証拠であります。また、わざわざイエス様を追いかけていながら、「父も母も知っている」と つぶやいたのです。つまり彼らは、イエス様を人として見ているのです。ですから、彼らが求めているのは、天からの命を与えるパンではありません。食べ物のパンでおなかを満たすことなのです。だから、目に前にある命のパンを求めようとしないのです。
ヨハネは、ここまでの記事で、人々のことを「群集」と呼んでいました。そしてこの箇所から「群集」を「ユダヤ人」に置き変えています。ヨハネが呼ぶユダヤ人とは、イエス様を受け入れない人、ヨハネの教会と対立していたユダヤ教の人々を指します。つまり、イエス様を追ってきた群衆のなかに、「ユダヤ人」と ヨハネが呼ぶ、イエス様を受入れない人々がいたということです。
この「ユダヤ人」との表現はヨハネ特有のものです。それには理由があります。ヨハネによる福音書が書かれた紀元90年ごろは、キリスト教会とユダヤ人が対立していて、キリスト教会は迫害を受けました。この時代に、キリスト教会はユダヤ教から離れたのです。その原因は、キリスト教とユダヤ教の違いにあります。ヨハネは、この最後に書かれた福音書に、その違いを明らかにしたのです。キリスト教がユダヤ教と大きく異なるのは、「イエス様こそ天から降されたパンである」との信仰です。それは「メシアはイエス様のこと」だとの信仰なのです。それに対してユダヤ人はつぶやきます。つぶやくと訳されている言葉(ゴングーツォー:γογγύζω)は、不満がくすぶっている状態を指します。ですから、日本語のつぶやくと言う言葉よりは、かなり攻撃的です。「イエスは人間だ。その人間が神の子として天から降ったというのは神への冒涜だ」。これがユダヤ人の思いだったわけです。
イエス様は言います『つぶやき合うのはやめなさい。6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。』
「神様が引き寄せてくださらなければイエス様を信じることができない」。このように、イエス様は言います。信仰は、神様が選んで与えるのであります。だから、人が神様を選ぶのではないのです。私たちの信仰も同じです。「信じる、信じない」の決定権を持っているのは自分自身ではありません。だから、自分でそれを判断しようとすれば、「いつまでも迷う」ことになります。もしくは、「理性の奴隷になる」だけです。まずは、信仰は神様が与えてくださることを 受け入れてください。
イエス様は続けます。
『6:45 ~父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。』
このイエス様の言葉は、ヨハネの教会の信仰告白であるとも言えるでしょう。「イエス様に信頼し、ゆだねる人は、永遠の命を得ている」。この言葉があってこそ、キリスト教はユダヤ教とはっきり分かれたと言えます。ここでの、信じる者とは、「イエス様に信頼し、ゆだねる人」の事であります。神様の みもとから来たイエス様だけが、神様と罪人である私たちの仲介が出来るのです。ですから、神様に出会い、知るためにはイエス様に委ねるしかありません。ところが、すでに、イエス様を信じる者は永遠の命を頂いているのです。「救い」は、ただ神様から遣わされたイエス様を信じ、イエス様に委ねる者に 無条件で与えられているのです。
「天から降ってきたパン」で、思い起こすのは、モーセのエジプト脱出の時のことです。ユダヤの人々に与えられたマンナ。この「マンナのようなしるしを見せてください」とユダヤ人はイエス様に言いました。それに対してイエス様は、ご自身がマンナ以上のものである と言います。
『6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。』
そして、イエス様は続けます。
『6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」』
天から降ってきたパンですが、イエス様は3つの意味を持たせています。まずは、そのまま「天から降ってきたパン」です。モーセが預言して、天から降った出エジプト記のマナ。食べ物としてのパンが第一の意味です。そして、48節では「命のパン」と言っています。つまり、食べ物以上のものであり、それを食べる者は永遠の命を頂きます。これが、第二の意味です。最後に、51節の生きたパンです。イエス様は、私たちに永遠の命をもたらす命のパンであるとともに、この世で生きている「肉体を持ったパン」だと言っているのです。イエス様は私たちの罪のために自分の肉を捧げ、血を流しました。ここでイエス様が語るのは、「私は十字架で死んで あなたたちの犠牲になります。」ということです。だから、「生きたパンであるイエス様の肉の犠牲を憶え、また、パンを食べて記念としなさい。そして永遠の命を得なさい」と教えているわけです。ユダヤ人はこの言葉に、混乱し、つまづきます。
『「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。』
イエス様の言うパンは、み言葉の比喩であることは、ユダヤ人も理解していました。ただただ、認めたくなかったのでしょう。ユダヤ人は、イエス様のことばをすり替えてしまいました。命を犠牲にすることを肉と言い表した比喩を、「イエス様の肉を食べる」と 言葉尻を捕えたわけです。「この人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか?」と、・・・ユダヤ人たちは、イエス様の言葉に、向き会おうとしないのです。
ユダヤ人たちは、「イエスが天から降ってきたパンである」ことにつまずきました、つまりイエス様が救い主メシアであるとは認めなかったのです。次に彼らは「命のパン、生きたパンとは世を生かすための私の肉だ」というイエス様の言葉をおかしな話として取り合いませんでした。私たちの罪の贖いのためのイエス様の死と復活を受入れなかったのです。このユダヤ人たちの姿は、ヨハネの教会と対立したユダヤ教の人々の姿なのだと思われます。
私たちは、このイエス様の言葉を、しっかり憶えなければなりません。私たちは、イエス様の命の犠牲の恵みのもとに、み言葉に聞き、イエス様に全てを委ねています。イエス様のみ言葉、イエス様の生き方、十字架での犠牲、そして3日目の復活。これらの福音を私たちは信じています。それは、イエス様の命を頂いていること、つまりイエス様の肉と血を頂いていることと同じなのです。そして、イエス様の肉と血に与っているがために、私たちには永遠の命が約束されています。最後に、このイエス様の言葉を受け止めてまいりましょう。『6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』
このイエス様の言葉を信じる。それは、神様の導きによります。ですから、命のパンである み言葉に導かれるよう、祈ってまいりましょう。