ヨセフとマリヤは婚約中でしたが、いっしょになる前にマリヤが身籠りました。神の戒めには、不貞は石打の刑と定められていました。しかし、ヨセフは、マリヤを刑に処したくなかったので、内密に離縁しようと心の内に決めました。このことを思い巡らしていた時、御使いがヨセフの夢に現われ、ダビデ王の家系にあることを示したうえで、
『1:20 ~恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』
と告げ、生まれてくる子は男子であり、その名をイエス(主は救う)とつけなさいと告げました。
なぜなら、『1:21 ~この子は自分の民を罪から救うからである。」』
マタイは、マリヤが聖霊により身籠り、男子を生むことについて、神様が預言者イザヤを通し約束された事の成就、即ち、神様の救いの約束、救い主到来の実現と説明しました。つまり、救い主がいきなり現れたのではなく、その必然があったということです。
1.救いの約束へのストーリ
第一は「罪」です。本来、人は、神を礼拝し、神様に信頼し生きる者として造られました。しかし、私たちは、神様に背を向け、神様から離れ、自分で生きている気分でいます。しかし、それこそ「罪」なのです。罪とは、神様に対する罪であり、自らのおごり、高ぶりです。そして、神様から離れ、欲のままに悪を行い、孤独で、人を赦さず人を妬み、暗闇の中に生きています。 私たちの最大の問題は、罪の問題です。確かに環境や社会の仕組みも大切です。当時のユダヤ人も、救いはローマ支配からの解放と考えていました。しかし、真の救いは、罪から救われることです。
それは、そもそも神様が人間を造ったときの「神様に信頼し生きる者」となることです。
第二は「罪の赦しについて」です。人は、最初の人アダムが罪を犯して以来、全て罪をもって生まれます。しかし、キリストは、マリヤから生まれた、全く罪のないお方です。そのキリストが私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で神様に裁かれ、罪を赦し、神様と和解させ、神様とともに歩む者へと導いて下さるのです。
神様が愛のお方ならば、罪を問わず、無条件に赦し迎え入れていいのではと思うかもしれません。しかし、神様は、憐れみ深いお方でありますが、義なるお方でもあります。罪を嫌い、罪を裁くお方です。だから、神様の義と神様の憐れみが接点を持つには、キリストの十字架が必要だったのです。私たちの罪への裁きは、キリストが背負うことで、私たちは神様の憐れみに与るのです。ですからキリストは、十字架に架かり死に私たちを罪から救うために、この地に来て下さいました。
第三は「救いによる幸い」です。福音は、何かの「教え」ではありません。生き方です。
ローマ『1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』
悪しき欲望や悪しき習慣に打ち勝つ神様の力、孤独を癒し心を満たす神様の力、苦難の中でなお平安をもって歩んでいく神様の力があります。その神様の力によって、救われ、そして幸いを頂くのです。
この「罪」、「罪の赦し(救い)」、「救いによる幸い」の3つの要素があるからこそ、その準備を神様が整えたからこそ、救いの預言が成就する時を迎えたのです。
2.救いに与るために
この素晴らしい救いに与るためには、どのようにすれば良いのでしょうか?ヨセフは、生まれてくる子を受け入れました。同じように、「信仰」によってイエス様を受け入れることです。
信仰とは、神様の救いに与るために対し差し出す心の「手」です。これは、どんなに考えても理屈でわかるものではありません。ヨセフも全てを理解して受け入れたわけではなかったのです。また、信仰とは、神様に対する従順です。美味しいことや楽しいことだけではなく、苦しみをも受け取ることになるのです。ヨセフは、中傷されることを考えて、また、母子の命のことを考えて、ひそかに離縁しようと思っていました。しかし、夢の中の神様のお告げを聞き、そのお告げに従ったのです。その決意によって、中傷を受け入れることになりました。そして母子を神様が守ることに信頼したことでもあります。
神様の救いを受け取る。それは、他人に理解されないことかもしれません。そして、恐れも覚えることです。でも、信仰は、喜びを受け取ることであると同時に、神様に従うことによる苦しみをも受け取ることです。神様はともにおられ、苦しみが絶望に行きつくのではなく、苦しみを経て真の祝福と喜びに導かれるのです。
神様の救い。イエス・キリストを、ヨセフのように受け入れ、神様に立ち返り、分からないことや恐れをおいても、神様の御手に委ね、神様とともに歩む幸い。その幸いを頂くことを信じてこそ、罪ある私たちが新しく造り変えられるのです。