1.悪魔と戦え
パウロが、手紙の最後に、主の偉大な力によって強くなるように改めて勧めているのは、悪の霊的勢力があるからです。パウロは、この手紙の端々に、悪魔と悪霊のことを言及していました。そして、これらの霊的勢力は、キリストのうちにいる者たちをなんとかして滅ぼしてしまおうしているのです。ですから、私たちは、主の偉大な力を、これら悪魔と悪の諸霊の猛攻撃に対して用いなければならないのです。
悪魔らは、「私たちが、キリストが十字架で自分の罪のために死んでくださった」その事実と力について歪め、嘘をつき、正反対のことを信じ込ませようとします。そして、私たちをキリストから離れて生きるように仕向けるのです。だから、悪魔の「策略」に立ち向う必要があります。パウロは、この勢力に立ち向かう姿を、「神の武具」で形容します。
神の武具を身に着けるときに、初めに行なうことは真理を帯として締めることです。偽りに対抗するためには、真理を身に着けることです。悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるのは真理なのです。悪魔は、私たちの思いに訴え、欺きます。しかし、私たちは真理である主に より頼むのです。 そして次に、胸当てとして「正義」を身につけなさい、と勧めています。胸は私たちの心のことを表しています。クリスチャンの正義は、キリストの義です。私たちが行いによって、神様に認められようとする必要はなく、私たちは、ただキリストの恵みによって救われています。またパウロは、『6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。』と言っています。神様は、罪が赦される良い知らせを伝える準備を求めているというのです。もはや、敵対しておらず、イエス様の十字架によって和解ができるようになったのです。次の神の武具は、「信仰の盾」です。私たちは、信仰によって自分自身を守ることができます。キリストが、私たちの代わりに守ります。ですから、私たちはただ、そのことを信じればよいのです。それが、信仰の盾となるのです。 兵士のようにクリスチャンも、兜をかぶらなければいけません。救われるとの確信があれば、悪と戦う勇気も与えられるからです。
そして、『霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。』とあります。神様の言葉は、聖霊が与えてくださいます。ですから、人が解釈し、説明することで力を持つのではありません。み言葉自体に力があるのです。聖書を理解する人間の知恵ではなく、神様のみ言葉そのもので、戦うのです。私たちの言葉は、人の魂を救えません。神様のみ言葉が、人の魂を救うのです。私たちの剣は、神様のみ言葉なのです。
私たちは、『絶えず目をさまして』いなければいけません。日常生活で霊の戦いは繰り広げられているのです。目を覚ましていれば、何かが起こったときに、私たちはすぐ神様に対して、祈ることができます。『すべての聖なる者たちのために』祈りなさいとありますが、お互いのための「とりなしの祈り」を指しています。そして『根気よく祈り続けなさい。』とあります。なかなか祈りが聞かれないので、祈ることをやめてしまうことがしばしばありますが、霊の戦いにおいて必要なのは、あきらめることがない、しつこい祈りです。
パウロは今、『すべての聖なる者たちのために』祈りなさい、と言ったので、それを自分自身に当てはめています。どうか、聖なる者の一人として、私のために祈ってください、とエフェソの信徒たちにお願いしています。私たちは、いつでもこのように、自分の祈りの課題を臆せず示す必要があります。自分のことだからと言って、遠慮はいらないのです。ここでのパウロの要請は、パウロが『語るべきことは大胆に話せるように』、との祈りです。
2.結び
そして、終わりのことばとして、パウロはあいさつをしています。 ティキコは、パウロがローマで鎖につながれているとき、そばで世話をしていました。彼がこのエフェソ書と、コロサイ書をパウロから受けとって、アジア地方に届けました。 ティキコがパウロについての近況報告をエフェソの人たちにすることによって励まされるように、とのパウロの願いです。そして愛と恵みのことばをもって、パウロはこの手紙をしめくくりました。