1.割礼の問題
ユダヤ人ではない私たちにとって割礼は、問題になりません。しかし、信仰者として要求されることが多いのは、悔い改め、罪の状態を除去、献身的であること、全てを委ねて飛び込むことなどを挙げると、我々も似た状況であると言えます。
『5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。』
基本的に人間は、あらゆることに関してより良いものを欲しがります。生まれながらに人間が持っているこうした性質をパウロの敵対者たちは悪用していました。彼らはガラテアの信徒たちをこんな風に言って唆していたと思われます。
「あなたがたの信仰それ自体は素晴らしい。しかし、それだけでは十分ではない。よりよい信仰生活を送るためには、少しばかり、代表的な律法を加えた方が良い。割礼を受け、他のいくつかの律法を守るならば、信仰生活が祝福される」などと 教えたのです。
ガラテアの信徒たちにとっては、受け入れ可能な事だったのでしょう。特段、イエス様に対する信仰については、何も変える必要はありませんし、律法とは言っても全部とは言われていないからです。しかし「蟻の一穴」(千丈の堤も蟻の一穴より崩れる)のことわざの通り、割礼を起点として、あれもこれもと、徐々に律法中心の信仰生活に戻される危険性がありました。
しかし、パウロは律法に戻ること対して、疑念を抱いていました。とりわけ、義とされることに関しては「律法も信仰も」ではなく「律法か信仰か」という選択を迫ったのです。神様の前で義とされ、そして救われるためには、律法もあった方が良いとは言えないからです。律法によって救われるわけでなければ、そして信仰によって救われるのであれば、律法を付け加えることが危険であることは自明のことです。もし、律法を付け加え続けたら、信仰より律法が重要になってきたら、そこに救いは無くなるからです。
ユダヤ人たちは「割礼を受けるとは、自発的に全ての律法を受け入れることである」と教えました。つまり、「割礼などの自発的な律法を守る努力で義とされる」という考えです。これは、パウロが教えた「信仰によって義とされる」とは、相いれないものです。しかし、信仰によって義とされるこの教えを実生活に適用しようとするならば、矛盾をはらんだ霊的な戦いになります。なぜなら「自分自身のよい行いによって神様に義と認めてもらおう」という気持ちは、「割礼などの自発的な律法を守る努力で義とされる」考えと、私たちの内側から沸き起こるものは同じだからです。
ところが、パウロの教えるように、「行いによる義」から「神様の恵み」の下に移行することで、明確になります。神様の恵みは、私たちがイエス様を信じることで、神様は救いを与えて下さるからです。キリストは私たちを律法から解放してくださったのです。ですから、私たちは自由にされた者として生きるのです。
この「キリストにおける自由」の下に移行するとは、同時に、「自分自身に義がある」可能性を完全に否定したことになります。人は行いによる義にこだわっている限り、「自分は救われる」という確信を得ることはできません。いくら人が「自分の救いのために必要なことは全てやった」と思っていたとしても、思い返してみれば、それは不完全な行いであり、動機が不純でかつ配慮不足であることが次々に思い浮かぶことでしょう。その結果、誰が「救いの確信」を持ち続けられるのでしょうか? 行いでは、何度やりなおしても、神様から義とされることはないのです。
『5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。』
「申命記」23章1節によれば、去勢した男子は信徒たちの集会に参加することが許されません。パウロはこのような辛辣な言葉をあえて用いることで「割礼を勧めるパウロへの反対者たちは、旧約の世界で去勢した者たちと同様に、神様の教会に属さない者である」ことを示したのです。彼ら反対者は「自分たちは実はキリスト教の信仰者ではない」という本音を隠しています。そこが、この問題の核心です。
2.神様の恵み
神様の恵みは、私たちが救われるための土台です。そして、信仰によって私たちが義とされることは「天国」のみの出来事ではありません。「罪人である私たちが信仰によって神様に義と認められる」ことは、この世での私たちにも起こります。「人間によるよき行い」は私たちが救われる根拠とはなりえませんが、よき行いは、救いの結果として自ずと生じてくるものだからです。
『5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』
キリストが私たちを自由にしてくださったのは、私たちが罪から解放されるためでした。パウロは手紙の読者がこのことをはっきり理解するように望んでいます。だから、自由になった機会に「隣人を自分のように愛しなさい」と教えます。そして、律法は、逐条的に 書かれた掟を守ることを目指したのではなく、「隣人を自分のように愛する」ことを全うするために神様がくださったものです。そして、今はイエス様を信じることによって、「隣人を自分のように愛する」道筋が約束されているのです。