サムエル記上1:1-11,20-28

 祈りは聞かれる

2022年 1月 2日 主日礼拝

「ダ祈りは、聞かれる

聖書 サムエル記1:1-10,20-28

新年おめでとうございます。今年は、コロナも収まっていくことを期待したいと思いますので、教会での日常もしっかりと取り戻していきたいと希望しています。

今日は、サムエル記です。サムエル記は、ダビデの王国の建設を中心に構成されています。時代的には、紀元前1000年ぐらいで、士師記と列王記の間にあたります。まさに士師とよばれる、政治的民族指導者によってイスラエルは導かれていた時代のその最後の士師がサムエルです。サムエルは、預言者でもあり、祭司でもありました。サムエルは、ダビデの王国の誕生に深くかかわっていますし、ダビデ王に神様の言葉を伝える役割を担っていました。ですからダビデの功績は、サムエルを介してもたらされた神様の御業であることを理解しなければなりません。したがってサムエル記を読むときは、ダビデ王の功績や人間性に注目し過ぎてはいけません。預言者サムエルを通して神様がイスラエルを導いたこと、それがサムエル記の中心だからです。

それだけ、預言者サムエルの担った役割は大きく、イスラエルの歴史を変えたのです。

 今日の聖書の箇所には、その預言者サムエルがどのような経緯で誕生したか、そして何故祭司として捧げられたかが書かれています。

そこには、サムエルを産んだ母ハンナの祈りがありました。ハンナは、祭司エリのところで、誓願(誓い)を立てたのです。その誓願がかなえられて、ハンナは男の子を生むのですが、ハンナにはただただ神様にすがって祈るしかなかったのです。そして、誓願が満たされたのち、ハンナは神様からいただいた男の子を、神様の働きのために捧げます。真心を持って、そして喜んで神様に一人しかいない男の子サムエルを捧げたのです。神様は、そうして捧げられたサムエルを預言者、先見者として育て、イスラエルの指導にあたらせました。


エフライムの山地に住むエルカナには、二人の妻がいました。第一夫人はハンナ、第二夫人はペニナです。ペニナには子供たちが生まれましたが、ハンナは子どが授かりません。それでも、夫エルカナは、ハンナを愛していたようです。たぶん、そのことでペニナは嫉んだと思われます。それで、ハンナに子供ができないことをことあるごとに言ったのだと思われます。

このことで、ハンナをひどく苦しみました。ハンナの苦しみは食事ものどに通らないほどでした。もしハンナが子どもを授かっていたとしたら、彼女はエルカナの第一夫人として、このような苦しみを受けることはなかったでしょう。これは、残酷な運命なのでしょうか? 聖書は、「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」(1:5)と記しています。つまり子が与えられたなかったこと、そしてペニナによる嫌がらせも、神様の意思によることを聖書は解説しています。

特に、シロの街でのことです。シロは、イスラエル民族がカナンの地に入ってからの政治と宗教の中心地でありました。そこには、主の神殿(幕屋:モーセがシナイ山で十戒を授与された後,神の命令に従って作ったテントの礼拝所。)があって、祭司たちがいました。祭司たちは、幕屋でできた神殿に生贄をささげに来る人々と礼拝を守ります。その献げ物の一部は、その家族で食べるわけです。レビ記を見ると「和解の捧げもの」については、家族で取り分けて食べることがわかります。

(詳しい規定はレビ記1~7章に記されている。動物の犠牲の中でまず牛,羊,山羊などを全部焼いてささげる「焼き尽くす献げ物」がある。次に,献げ物の肉の一部を奉献者やその家族が会食する「和解の献げ物」や,罪科によって破られた神との契約の関係を正す「賠償の献げ物」などがある。穀物の献げ物には,初穂,パン,麦粉の菓子,ぶどう酒,油,香などが当てられていた)。

これは、結構残酷な行事です。二人の婦人は同じ屋根の下に住んでいるわけではありませんが、この生贄をささげに来る1年に1回だけは、第二夫人とその子供たちも一緒に食事をとらなければなりません。どんなにか、自分に子供がいない事を思い知らされたのでしょう。この行事は、ハンナにとって深く悲しく、苦しいものでした。そして、食べ物ものどを通らなかったのです。

ハンナは、シロの街の主の神殿に来るたびに、この苦しみに直面させられました。こんなことが、何年も続いたのでしょう。夫エルカナは、優しい言葉をかけました。『ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。』

それでも、ハンナの心の奥にある苦しみを開放することはできなかったようです。そのために『ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。』とあります。

ハンナは、ひとつの誓い(民数記30章参照)を立てました。誓いといっても、神様との特別な誓いですので、誓願という言葉をよく使います。誓願とか、神様への誓いは、神様との約束ですから、必ずその誓いを守らなければなりません。そして、ハンナの誓願は、預言者サムエルを世に送り出す祈りとなったのです。決してハンナは、ペニナのとの間の確執について祈ったのではありません。ハンナは、神様に顧みて頂くように祈りました。

『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。』


男の子をお授けになって下さいという祈りと、その子の一生を神様にささげるという矛盾したような約束であります。せっかく祈って授かった男の子を神様にささげるというわけですから、とても大胆でかつ欲の無い誓願です。その誓願が成就したとしても、ハンナには男の子を生んだという事実だけで、何も手元に残らないのです。しかも、誓願は神様との契約ですから、絶対に守らなければなりません。また、「その子には剃刀を当てない」とも誓います。これは、男の子を神様に捧げたことに加えて、神様の御業に献身して一生を捧げるという意味になります。頭に剃刀を入れないということは、ナジル人(びと)となることを指します。ナジル人とは、特別な誓いによって「神にささげられ,聖別された人」のことを指します。その誓いの期間中は,酒を断ち,頭髪を刈らず,死体に触れなかった(民 6:1-21)と聖書には書かれています。ですから、ハンナの立てた誓願は、生まれる男の子を祭司や預言者として、一生神様の御用を勤めさせるという意味になります。

こうして、預言者サムエルは生まれる前から、ハンナの誓願によって神様の業を担うことが決められたのです。

しかし、これには条件があります。この誓願が有効となるためには、夫エルカナが承認しなければなりません。民数記30章によれば、女性が誓願を建てる場合、未婚の場合はその父親の承認が必要でした。そして、結婚している場合には、夫の承認が必要でした。父や夫の承認がなければ、誓願は成立しません。ですから、ハンナの立てた誓願は夫エルカナの承認が必要です。幸いにもハンナの誓願は夫の承認を得られていたようです。


結局、ハンナの祈りは聞かれました。「私がこの子を主に願ったから」ということで、この子の名は「サムエル」と名付けられました。

男の子サムエルが生まれた後、エルカナの家族が揃ってシロにある主の神殿に礼拝に行く時に「自分の満願の献げ物を主にささげるために」と書かれています。やはり、ハンナの祈りはエルカナの祈りでもあった事がこの記事からも伺えます。エルカナは、祈りがかなえられたので、その感謝として捧げものを持ってシロの主の神殿に向かおうとしたわけです。そして、その時にはサムエルを主の神殿にいるエリのところに預けなければなりません。しかし、妻ハンナが「この子が乳離れするまでは」と言って、しばらく育てたのちにサムエルをシロに連れて行くと言い出します。夫は、ハンナの言うとおりに受け入れました。こうして、士師である祭司エリの跡を継ぐことになるサムエルは、三歳ごろまで、エルカナとハンナの信仰のもとで育てられました。

サムエルが乳離れしたとき、両親は祭司エリの所にサムエルを連れて行きました。その時、ハンナが祭司エリにこのように言います。

「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。1:27 わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。1:28 わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(1:26~27)


サムエルは祭司エリのところに預けられようとしています。それなのに、サムエルの両親は「主にゆだねる」と言いました。主であるヤハウェにサムエルの生涯をゆだねたのです。こうして両親の信仰と祈りに支えられて、サムエルは士師エリの下に預けられたのです。サムエルは、神様によって育てられ、そしてエリの後継者としてイスラエルを指導します。このサムエルは、ハンナの誓願がなければ、生まれることもなければ、そして神様にゆだねられることもなかったでしょう。そして、その誓願は、神様がエルカナとハンナを用いることで、計画され成就しました。神様は、歴史に介入されてきた神様なのです。


男の子が与えられないという、個人的な事情にも、またどんな慰めのことばも届かない心の奥底にも神様は介入されます。ハンナが誓願をするときに祈ったような祈りは、普通はできません。本当に悲しみや苦しみにの中にいなければ、このように祈れないのです。ハンナはそのような状況の中で、希望をただ一つ持っていました。それは、神様に誓願を立てることです。神様に誓願を立てれば、必ず成就するると信じていたからです。そして、その誓願こそがサムエルが生まれる直接的なきっかけになりました。しかし、そこにつながる出来事には、全てが神様のご計画と働きかけがあったのです。すべての出来事に神様の働きかけがあるのです。私たちには、その神様の意図を見ることはできませんが、その結果は、恵みとしてたくさん受け取っています。そして、その恵みを頂いている私たちですが、「神様の恵み」だと理解するまでに時間がかかるでしょう。私たちは、自分で何事もできていると思いがちですが、実はそれを導いているのは神様なのです。神様にゆだね、そして神様に祈っていくこと。そうすれば、神様の恵みが分かってくるのです。神様は、私たちのことをいつも顧みながら、私たちを一方的に愛し、導いてくださいます。神様に信頼し、神様に祈って、信仰生活を送ってまいりましょう。必ず、どんなことも神様は実現してくださいます。