マタイ14:2-36

湖の上を歩く 

1.五千人の給食後

  ヨハネによる福音書の6章によると、このような記事があります。

『6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』


 マタイには書かれていませんが、突然イエス様が群衆から離れた理由がここにあるようです。王に祭り上げられ、利用されることを避けたのです。

イエス様は一人で、山に登って祈りました。一方で弟子たちは舟にのって、先にカファルナウムに戻っている最中でした。ガリラヤ湖は、海の様に波が荒い湖ですから、その何スタディオン(1スタディオンは185m≒1/10knot)か進んだところで、立ち往生していたのでしょう。すくなくとも、この状況を見ると、結構沖にいるので湖底は深いことが予想されます。(つまり、歩ける深さではないので、荒れた湖を引き返すこともできなかった)

 

2.湖の上を歩く

 イエス様は、山を下りてから弟子たちの船に向かうのですが、一晩中弟子たちは同じあたりにいたということになります。夜が明けて、イエス様は湖上を歩いて弟子たちの舟に向かいます。この部分は、浅瀬を歩いていたという学者もいるようです。科学的に見れば、水中に入っている分の体積の水の重さが体重と一緒になるはずですから、歩いていたとすれば、ひざ程度にしか水につかっていないことになります。だとしたら、イエス様の体重が20kgくらいでないと浮かばないという事になってしまいます。また、仮に浮いたとしても、立っていることはできません
(つまり、湖の上を歩くということは、科学的に説明はできません。しかし、驚くべきことがあったのでしょう。)

 

 湖上を歩くイエス様を見て、『幽霊だ』と弟子たちは思いましたが、あまり明るくないのでよく見えなかったということでしょうか?それとも、一晩中荒波にさらされて疲労困憊していたのでしょうか? しかし、恐怖を感じたということですから、ただならぬ景色だったことが想像されます。つまり、超自然的な事が起こっていたのです。決して、岸辺の浅いところを歩いていたのでは、説明ができません。ですから、イエス様の姿が見慣れた弟子たちにすら恐ろしかった、恐怖を禁じ得ない景色があったことになります。また、ペトロが湖上を歩くということにその後の話題が進みますので、やはり、水の上を歩いていたとの設定であることには変わりがありません。

 

3.ペトロが湖上を歩く

  ペトロは、イエス様に「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。つまり、まだ、その姿をイエス様だとは確信を持っていないのです。しかし、イエス様に「来なさい」と言われて、湖の上を歩きだします。

 ところが、強い風に気が付いて 怖いと思ったのです。思わず、「主よ、助けてください」と叫びます。イエス様は、ぺトロの信仰が薄いと言います。なぜ、疑ったのか?とまで言われてしまいました。これも、ひどい言われ方ですが、イエス様はペトロが疑いもせずに水の上を歩きだしたことまでは評価していると思いますが、それが持続しなかったことを言っているのでしょか?すこし、酷なことを言っているように感じます。しかし、その後イエス様が舟に乗ると、その嵐が収まりました。舟に乗っている人たちはイエス様のことを「神の子」として、拝みだしました。これでは、イエス様が山に脱出したことが無駄だったと言えます。しかし、弟子たちがイエス様と別れて大変心配ない一晩を過ごして、イエス様が戻ってきて安心したことは、確かなことだと思われます。

 

4.ゲネサレトでの癒し

 場面は、対岸からゲネサレトに代わります。カファルナウムからすぐそばです。

対岸では、癒しなどの「しるし」がたくさんありましたが、残念ながら信仰を持つようになったのではなく、「しるし」を目的とした群衆でした。

また、対岸から戻ってきて、癒しを求める者に囲まれるわけです。

  弟子たちですら、イエス様を完全には信じていない状況ですが、しるしは、起こされていきます。


ガリラヤ湖周辺の町(Bible Mapper)