マタイ25:14-30

神から預かった賜物

2023年 1029日 主日礼拝  

神から預かった賜物

聖書 マタイ25:14-30

今日の聖書は、タラントンの譬えです。タラントンとは、お金の単位で、1タラントンは6,000デナリに相当します。1デナリが8,000円ぐらいだとしたら、1タラントンは4,800万円に相当します。かなり大きな金額ですね。もともとタラントンとは、天秤量りの事でした。そこから、重さや才能のこともタラントンと呼ぶようになったようです。イエス様は、僕たちにタラントンを預ける話で、天の国を譬えました。

 ある人が、旅行に出かけようとしていました。家を留守にするわけですから、僕たちに家を管理してもらわなければなりません。また、お金も旅行中にそのままにしておいては、増えないので、僕たちに預けたわけです。それも、ただ平等に預けるのではなく、それぞれの僕の力に応じて金額を決めました。この主人は、多くを預けた人に 多くを増やすことを期待していたわけです。お金を増やす方法は、2つあります。商品を仕入れて、売るといった所謂「商売」。それから、銀行に預けるとか、金貸しをするといった所謂「金融」です。その主人の僕への期待は、神の国に似ています。神様は、私たちにそれぞれの力に合わせて「賜物」を預けます。そして、その「賜物」はそれぞれが預かるには、重すぎず、そして軽すぎないのです。私たちが、その「賜物」を増やすことを神様から期待されています。預かった「賜物」を使い、神様の御用である「福音」を宣べ伝えることで、さらに「賜物」が増し加えられるからです。

 早速、5タラントンを預かった僕は、商売をして5タラントン儲けました。2タラントンを預かった僕も、2タラントン儲けました。いつ帰ってきてもおかしくない主人の期待にすぐ答えたのです。一方で、1タラントン預かった僕は、穴を掘って主人のお金を埋めてしまいます。それで、主人の期待に応えることが不可能となりました。そして、考え直して銀行に預けることもしませんでした。その僕は失敗を恐れたのでしょうし、お金を埋めたことによって、お金がなくなる心配はなくなりました。このように主人から預かった「賜物」を恐れて使わなかった僕は、主人の期待に応えることを考えずに、保身をしたのです。

 かなり日がたって、主人が帰ってきます。そこで、預けたタラントンの清算をするわけですが、多くを儲けた僕がどこか誇らしげであり、そして、お金を埋めてしまった僕は、言い訳がましく自己弁護をします。

『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

一方で、この言い訳です。

『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

この言い訳をする僕は、罪の中にいる私たちを象徴しています。そして、タラントンを増やした僕たちは、私たちの将来あるべき姿を象徴しています。私たちが「罪人であったことを悔い改めて」、神様の命令に従おうとしているからです。私たちは、神様の期待に応えようとして神様の賜物を使うならば、預かった賜物は増し加えられます。そこに、私たちの成長があります。


 この僕。言い訳をした僕について、私たちはもう少しよく観察する必要があります。まず、彼は何を恐れていたのでしょうか? 商売をして損失が出る事。そして、そのために厳しい主人によって罰せられることだと想像できます。ですから、安全な場所に隠して、お金を損なうことを防ぎました。商売をするならば、儲かるときも損をするときもあります。この言い訳をしている僕は「損失が出ないこと」だけを狙っていたと思われます。また、「主人の持ち物は、預かった1タラントンだけである。」との考えを持っているようです。5タラントン預かった僕が、預かったお金と、もうかったお金を分けて、清算しました。本来、その両方が、主人のお金なのです。ですから、この言い訳をする僕は、得るはずだった利益を損なったのです。そのため、主人がお金を預けたことが無意味になりました。その僕は、損失が出ない事を狙って、得られるはずだった主人の利益をゼロにしてしまったのです。そもそも、主人の期待と異なる行動をとることから間違っていました。そして誰にも相談しないで、自分の思いのまま実行し、結果が出たら「やむを得なかった」と言って開き直る。それは、実に私たち罪人の姿そのものでもあります。

 この記事から見える、罪人である私たちの持つ性質をあげてみましょう。


1.「神様は厳しく、残酷で、不公平だ」と思っている。

 これは、被害妄想としか言いようがありません。「神様に不当な扱いを受けた」との思いは、きわめて主観的であります。


2.自身の「怠惰」をごまかした。

 この罪人が賜物を預かったのは、賜物を増やすためでした。しかし、この罪人は主人の期待に応えようしなかったのです。


3.「すべてを神様のせいにして恨みます。」

 罪人は、自分が悪かったことを全く認めません。そして、神様を攻撃します。 


 さて、主人の裁きを見てみましょう。

『怠け者の悪い僕だ。~25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』


 天の国では、このような裁きが行われるのです。

まず、怠け者であること。この判定から始まります。神様の賜物を預かりながら、自分の与えられた使命を果たそうとしませんでしたから、その判定も仕方がないでしょう。そして悪い僕と呼ばれます。なにが悪なのでしょうか? 2つあると思います。私たちはすべてを神様から頂いています。持ち合わせているもので、自前のものと言えば、私たちの中に住んでいる「悪」だけです。神様から預かった賜物を用いて、使命をはたそうとしない。それが、「悪」であるので、神様が用意した「救い」に与れないのです。もう一つ言えるのが、この言い訳の罪です。「私の怠慢でした。お赦しください」と祈れないのが、私たちの本質だと思います。

 そして、怠け者の僕の1タラントンは、10タラントンを持っている僕に与えられます。もともと、神様は、最初に渡したお金と、儲けたお金もその僕に預ける予定だったのです。神様は、預けた賜物を増やした者にそのままその賜物を預けます。そして、また賜物は増えることが約束されています。私たちは、神様に信頼して神様から預かった賜物を用いて、福音を宣べ伝えたいのです。それが、私たちが神から頂いた使命であります。


『25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』


 ここで、持っている人とは、お金を持っている人のことではありません。霊的な豊かさと勤勉さを持っている人の事であります。そのように、神様から預かった「賜物」を持っていて、神様の命令に従っている人々は、ますます賜物が増し加わります。その反対に、霊的に豊かでなくて怠惰な人は、神様に背いて、神様が預けたものすべてを取り上げられます。神様から預かって持っている「賜物」を使わずに、持っていないかのように何もしなかったからです。神様から預かった賜物を取り上げられた人。そこには、「悪」しか残りません。そして、天の国から追い出されるのです。


 さて、5タラントンを預けられた僕と、2タラントンを預けられた僕は、そのお金を使って、増やしました。彼らも、1タラントンを預かった僕と同じように、失敗することが恐かったはずです。それを乗り越えられたのは、どうしてなのか?このことを考えたいです。一つは、彼らは自分に与えられた使命を果たそうとしたと言えると思います。1タラントンを預かった僕はと言うと、「損を出したら叱られる」との自分の都合で、神様から預かった賜物を使いませんでした。それと比べると彼らは、神様のためにその賜物を使うことを決断できたわけです。しかも、すぐに決断をしました。後回しには、しなかったのです。後回しにしたいのは、決心がつかないこと、つまり自分の都合です。自分の都合を優先していたら、神様に与えられた役割を担うのが、いつになるかわかりません。神様のご命令は、自分の都合で、先に延ばさないようにしたいものです。彼らは、とにかくすぐに決断しました。挑戦した結果失敗に終わったとしても、神様は赦してくれると信じているからです。もちろん無謀なことをしてはいけません。賜物の使い方を正しく判断し、挑戦したならば、神様のみ旨にかなうのです。そして、彼らは賜物を使ってその賜物を増やしました。神様の御用のために賜物を使う時、神様はその賜物を必ず増し加えられるからです。5タラントンを預かった僕と、2タラントンを預かった僕は、その神様の導きを信じていたのだと思います。そして、神様の御用を優先して、そしてその結果を神様に委ねました。


 イエス様は、このように天の国の事を教えました。神様のご命令を優先する人々が天の国に住みます。それを導くのは、私たちの信仰であります。私たちは、神様に信頼し、神様の導きを信じるので、喜んで神様から預けられた賜物を使うのです。そして、神様のご命令に従うことは、自分の賜物を増やすことでもあります。そのように信じます。そして、神様のご命令に従うことは、自分にも善いこととして、返ってくるのです。そういう神様の命令を 聞き逃さないよう、そして賜物を出しそびれないよう、イエス様に祈って取り次いでもらいましょう。神様は、この罪深い私たちをも天の国に必ず導いてくださるからです。そのことを、信じてまいりましょう。