2025年 8月 17日 主日礼拝
『わたしたちは主のもの』
聖書 ローマの信徒への手紙14:1-9
今日はローマの信徒への手紙からみ言葉を取り次ぎます。今日の箇所でパウロは、「受け入れなさい」と お勧の言葉から始めます。
『14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。』
弱いと言う言葉ですが、元のギリシャ語は(アステネオー:ἀσθενέω)、病を患うといった意味合の弱さを表しています。パウロは、信仰的に弱っている人を受け入れなさいと勧めたわけです。得てして、私たちは、信仰の強い人にあこがれて、そういった人の方ばかりを見ているのかもしれませんね。
そもそも、誰かを基準に信仰の強い弱いを判断して、区別をすることに対してパウロは違和感をもったのかもしれません。私たちは事実、信仰が弱いにもかかわらず、イエス様に受け入れられて信じる者になっているのです。だから、少しの違いを持って、「信仰が弱い」などと人を裁くのではなく、自分も「信仰が弱い」者の一人として、受け入れて下さった神様の憐みに感謝すべきです。そして、受け入れてくださる神様に倣うべきなのです。この受け入れると言う言葉(プロスラムバンロー:προσλαμβάνω)は、相手に対して主導権を握るというニュアンスを持っています。そして、「14:3~神はこのような人をも受け入れられたからです。」の中の「受け入れ」と同じ言葉です。ですから、ここで「神様が受け入れる」とは、「まあ しょうがないか・・」と言った受け身でのかかわりではなく、積極的にかかわろうとの姿勢が含まれます。・・・ですから、信仰の弱い私たちにイエス様がかかわってくださったように、教会に集まる人々にかかわりなさい。それが、パウロの言う「信仰の弱い人を受け入れなさい」の意図だと思われます。
クリスチャンの集まりで、互いに受け入れ合うために、まず最初に「批判をしてはいけない」とパウロは言います。たしかに、批判をしないことは「受け入れ」ることの一つだと言えます。ところが、批判しない事だけではありません。ここで使われている元の言葉(ディアクリシス:διάκρισις)には、「批判する以前のこと」を指しています。つまり、心の中だけであっても、人を裁いてはいけないと言う意味です。イエス様は、こんなことを言っていました。
ルカ『6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。』
イエス様の言う、「裁くな」とは、「人を悪だ」と口や態度で表すことではありません。それ以前に、「人を悪だ」と思うことを禁止しているのです。
パウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言いました。信仰には、強かったり、あるいは弱かったり、それぞれの姿があります。たしかにパウロはこんなことも言っていました。
ローマ『12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。』
パウロが言った通りに、一人一人に分け与えられた信仰は異なっています。それは、神様から与えられた恵みが皆違うからです。ですから、私たちは、同じ神様を信じていながら、一人一人がそれぞれの信仰を持っているわけです。信仰に違いがあるのは当たり前です。そもそも、その違いを比較する意味がないのです。だから意見が違っても、相手の意見を受け止めることが大事です。もちろん、違う意見を言うことは許されますし、また、間違っている意見だと思うならば、助言も可能です。ここで大事なのは、対等な信仰者として、また対等な人格者として、違う意見を持つ人と関わりあうことです。受け入れるとは、そういう事なのだと思います。
さて、皆さんの間にある「信仰の違い」とはどのようなものでしょうか。パウロが、具体例をあげています。
『14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。』
当時の教会には、野菜だけを食べる人と何でも食べる人がいました。パウロが伝道していたのは、異教の地です。町で売られている肉は、異教徒の神に捧げられた動物の肉です。当時のローマ帝国では、色々な宗教の祭司たちが、副業としてお肉を売っていました。ですから、売られている肉そのものが偶像に供えられたものなわけです。それを気にする人たちは、肉を食べることを避けます。それで、野菜だけを食べることになるのです。その一方で、その肉はあくまでも肉であり、食物でしかないのだから、その糧を与えてくださる神様に感謝をしていただけばよい、という考えもありました。
当時、ローマのキリスト教信者たちは、偶像礼拝を否定するということでは一致していました。聖書は、偶像礼拝をする者は神の国に入れない(1コリ6:9)、とはっきりと告げているからです。けれども、偶像に供えた肉しか手に入りません。健康のためにその肉を食べるのか、律法のためにその肉を食べないのか? 悩むところだと思います。
私たちの社会にも、これに似たことがありますね。当時のローマ社会のキリスト教徒と同じ様に、私たちにも、意見の違いがあります。例えば、仏教式での葬式への関わり方です。ある人は、葬式に参加することそのものが偶像礼拝につながる、と避けます。またある人は、葬式に参加するけれども、偶像礼拝に関わる儀式は避ける。と言うでしょう。例えば焼香などは避けるべき、とか、祈るときは神様に向けて祈る、と言うものです。私個人はと言いますと、葬式は故人の周りにいた人たちのためにあると思っていますので、自分の信仰や主義主張は心の中にしまっておくことにしています。他にも、焼香はあくまでも、物質を燃やすことでしかないから、何の問題もないと言った考え方もあります。この場合、ローマの教会で肉を食べていた人々と同じです。他の信者をつまずかせないような配慮が必要です。このように、みな、偶像礼拝を避けているのですが、その避ける方法にはいろいろあるのです。
『14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。』
私たちがなぜ、他の人を裁いてはいけないのか。その理由が、ここに書かれています。それは、神様にあります。神様は、全ての人を受け入れているからです。神様が受け入れているのに、私たちが受け入れない。・・・それでは、私たちは、神様のみ心に背くことになります。「食べる人は食べない人を軽蔑してはならない」、とパウロは言います。だから、偶像に捧げた肉を食べても問題がないと思っている人は、肉を食べない人を「気にしすぎ」などと裁いてはいけません。また、肉を食べない人は、肉を食べる人に「汚れている」などと裁いてはいけないのです。
『14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。』
裁きとは、神様が行なうことです。人が介入することではありません。主人と召使との間の契約を考えてください。主人以外は、召使に命令することはできません。ましてや、その召使を裁くことは越権行為であり、主人への冒涜であります。だから、私たちは、神様を信じる他の兄弟を神様に代わって裁くことは許されないのです。裁くのは主なる神様ご自身です。私たちではありません。
パウロは、さらに各自の選びについて語ります。
『14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。』
初代教会では、金曜日の夕方からの安息日を守っている人が多くいました。神様が命令したからです。(出エジプト31:16)一方である人々は、すべての日が大切なのだから、毎日、神様を礼拝しなければいけない、と考え、毎日集まってパンを裂き、主を賛美しました。(使徒行伝2:46)
『14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。』
パウロはこう言いました。だれもが、神様のためにしていることだと・・・。
ある人は神様を礼拝したいと思って、安息日を大事に守る。また、ある人は毎日礼拝を守る。それと同じように、肉を食べる人も肉を食べない人も、神様のために礼拝を守る人なのです。神様に感謝する目的で、それぞれが肉を食べるかどうかを判断しました。ですから、肉を食べない等という外形的なことが大事なのではありません。神様に感謝をすることを目的に、それぞれの信仰で得られた判断によって行動することが大切なのです。
『14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。』
わたしたちは主のものです。人を見てどうのこうの言うのではなく、主なるキリストと向き合う生活、これがクリスチャンの生活です。私たちのすることはみな、イエス様との個人的な関係によるものでありたいです。だから、他の人に指示を仰ぐ必要はありません。だけど、他の人の信仰や思いを尊重してください。そして、裁きについては、全てをイエス様に委ねてください。委ねるのは、自分自身の裁きを含めたすべてです。そして、イエス様を通して神様に祈ってください。わたしたちは主のものだからです。私たちは、自分のために生きるのではありません。私たちは主のもの。だから、主イエス・キリストのために、生きてまいりましょう。