1.聖なる者となる
「さて、兄弟たち」と、ここから本題の教えに入ります。そのはじめの一つは、「愛」です。
『4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。~』
「聖」という言葉には、清いという意味があります。それは、穢れとは反対の言葉です。また、聖とは神様の性質でもあります。ですから、「聖なる者となる」ことは、神さまの性質に与ることにもなります。聖なる者とは何を指すか?、を考えてみましょう。それはキリストを信じる前と信じたあとの違いです。見た目は何も変わらないでしょう。しかし、少しだけキリストに似た者となることです。そして、信仰生活を続けることによって、少しづつ変えられていくのです。
『4:6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。』
神様は、踏み付けや欺きについて、罰を与えるとパウロは宣言します。もちろん、罰は罰なのですが、
『4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。』と
パウロが言うように、神様は罰をも手段として使って、「聖なる生活」に招いているのです。
最初の教えは、「みだらな行いを避ける(4:3)」ことです。なぜこの教えが最初に来ているのか?を理解するには、当時の世界の風潮や、テサロニケの町の風紀を知る必要があります。不倫は当たり前、という倫理観であったということです。偶像礼拝をする宗教では、むしろ神殿で堂々と行われていました。パウロは、「神様はそれを喜ばない」と教えているのです。なぜなら、みだらな行いには愛がないからです。この当時は、イエス様の弟子でさえ、イエス様の教えに対してこんな考えを持っていました。
マタイ『19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」19:10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。』
不倫はいけなくても、妻を簡単に離縁すれば妻を取り換えることができる。そのように考えられていたのです。ですから、パウロたちは、人々に意識の変革を迫るのでした。 さて、4節で「妻」と日本語に訳されていますが、元は「器」(スケウオス:σκεῦος)という言葉です。この「器」という言葉をこの新共同訳聖書は「妻」と訳しているわけですが、例えば口語訳聖書などは「からだ」と訳しています。次のようになっています。「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」と。つまり、自分を清く保つために、不倫をしてはならないという解釈です。一方で、新共同訳聖書は、最も身近な存在である者への愛が必要であるという考え方に基づいて訳されています。
2.兄弟愛
『4:10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。』
これは、周辺の諸教会への伝道応援、支援であると思われます。どこのクリスチャンであっても、主にあっては兄弟姉妹です。そして、ここで言う兄弟愛とは、信仰に立ち続けることができるように助け合うことを指しています。お互い祈り合って、助け合って、共に成長していくのです。
3.自分の仕事に励め
『4:11 ~落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。』
次は、働くように教えます。このことは、キリストの再臨と関係があります。キリストの再臨とは、世の終わりに、イエスさまが再びこの世に来ることです。初代教会の人たちは、そろそろキリストの再臨が近づいていると思っていました。もちろん、今でも近づいていますし、私たちもキリストの再臨を待っています。ところが、テサロニケの人たちの中には、「キリストの再臨が近いのだから、仕事なんかしている場合ではない」と考える人たちがいたようです。「再臨が近いから」と、仕事を放り出している。それは結果的に、家族やまわりの人に迷惑をかけることになります。それは神様の御心ではない、と言っているのです。なぜなら、それでは隣人を愛しているとは言えないからです。 そもそも私たちは、キリストの再臨がいつ来るのかということを知りません。だから、神さまから与えられた務めを果たしながら、主の再来の時を信じて歩むことが大切です。
さて、以上三つの教えですが、いずれも、「愛」という言葉でまとめることができます。神への愛、キリストへの愛、身近な存在である妻、そして家族への愛、兄弟姉妹への愛、隣人への愛‥‥それらがキリストを信じることへと結びついているのです。キリストの力を借りれば、そうすることができるというのです。