そもそも、他人の畑で麦を取って食べるというのは、道徳違反に思われます。しかし、ユダヤの伝統はそうではありません。それは泥棒だというよりは、福祉なのだという教えが古来からありました。
1.麦を摘む
安息日の時に、イエス様の弟子たちは畑になっている穂を摘みながら歩いていました。それを見たファリサイ派の人たちは、彼らを咎めたというのが今日の話題です。私たちの感覚から言うと、人の畑の穂を摘みながら歩いていることが問題だと思いますが、そうではありません。律法の中ではこのような規定がありました。
申命記 『23:25 隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。23:26 隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。』
これは、貧しい人たちを救済するための律法です。大掛かりな収穫さえしなければ、他の家の畑から穂を摘んでもかまわないのです。ファリサイ派の人々が訴えたのは、他人の畑から取って食べているということではなくて、安息日を守っていないということだったのです。
安息日は、イスラエルが奴隷となっていたエジプトから脱出した時に与えられた律法の中で定められた制度でした。神様が世界を創造された時、7日目に休んだので、7日を1週間という単位でくくり、7日目を安息の日として定めたのです。安息日には「あらゆる労働をしてはならない」と定められていましたから、「では、どこからどこまでが労働なのか」という議論がされ、厳密な条件が定められるようになっていきました。そして、安息日に「労働」の条件を満たすことをすることは、厳しく戒められるようになっていったのです。イエス様と弟子たちがしていた、穂を摘むという行動は、農作業とみなされるので、その当時安息日を破っていることとみなされました。言いがかりと言えそうなのですが、神様に背いていると言われれば黙っているわけにはいきません。しかしイエス様は、旧約聖書の中にある出来事を通して、ファリサイ派の人々を黙らせます。『2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。』
これは、ダビデが王になる前に起こった出来事です。サウル王から追われるようにして逃げてきたダビデが身を隠したのは、祭司アヒメレクのところでした。ダビデは空腹を覚えて、アヒメレクに何か食べ物がないか尋ねます。するとそこには、捧げものとして祭司だけしか食べることができない聖別のパンしかありませんでした。アヒメレクは、祭司しか食べることが許されていないパンをダビデに与えました。
イエス様は、このように言います。かっこ2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」
『2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」』
ユダヤ人たちが、7日の内の1日は労働をせず、休むようにと定められたのが安息日です。安息日という律法は人間を守るために設けられたルールだったのに、いつの間にか人間がルールに縛られて、ルールのための人間みたいになってしまっていました。もし、イエス様も安息日を文字通りに守らなければならないと主張したなららば、安息日に癒しがあるのでしょうか?心が満たされれるのでしょうか?そんな安息日には、誰も救われないのかもしれません。
ここで立ち戻って、天地創造の時、7日目に神様が休んだということをもう一度考えてみる必要があるのだと思います。神様が休んだということは、神様が何もしなかったということではありません。神様は創造の業を終えました。しかし、何もかもやることを打ち捨てて休んだのではありません。創造主である神様、イエス様は、いつでも、私たちと共にいてくださるということ。私たちを癒し、慰め、救うことを休まれない方だということは、忘れてはいけません。
神様はこの世界を造りました。それは命を造ったということです。私たち一人一人の命を造ってくださいました。神様は私たちの一人一人の命を慈しんでくださる方です。命が損なわれることを願っておられません。神様は私たちが肉体的にも、そして心にも、健やかであることを望んでいます。また霊的にも健やかに豊かに生きることを願っています。そのために安息日は定められました。心身共に、神様に守られ、慈しまれていることを覚えるための安息日なのです。