2024年 7月 7日 主日礼拝
『新しい約束』
聖書 ミカ書7:1-20
預言者ミカは、モレシェトという地中海と死海の中間に位置する農村の人です。イザヤとエレミヤと同じ紀元前8世紀ごろに活躍しました。
さて、今日の聖書の箇所は、イスラエルの民に向けた神様の嘆きの言葉で始まります。背景として、国の衰退があります。このころの、北イスラエル王国が滅亡(紀元前722年)に向っていました。国の衰退は、偶像礼拝を蔓延させているイスラエルの民に 原因がありました。神様は、イスラエルの罪に対して何度も警告します。しかし、その偶像礼拝は止まりませんでした。それでついに、神様は、北イスラエル王国を滅ぼすと 決意したのです。神様はその決意までの間、イスラエルの民が悔い改めるように、預言者たちを遣わしました。でも、イスラエルの民は、神様が遣わしたどの預言者も受け入れなかったのです。ですから、神様は、イスラエルの民を批判します。
神様は、今日の箇所の前の6章で民を指導したこと、そして民が従わなかったことを告発しています。そのなかから、一つだけ紹介します。
ミカ『6:3 「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。6:4 わたしはお前をエジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを/お前の前に遣わした。」』
神様は、モ-セとアロンをエジプト脱出のための指導者として立てました。ミリアム(モーセの妹 代上5:29)は?と言うと、紅海の水を神様が分けた時、イスラエルの民を先導(出15:20)した女性です。その、ミリアムも神様が導いていたのです。
神様はこのようなイスラエルの危機がある度に、手を差し伸べてきました。ですから、預言者ミカは、このように 民に要求します。
ミカ『6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。』
神様の要求は、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」。そのためには、神様の正義と慈しみと愛 を知らなければなりません。それは、イスラエルの民はすでに告げられているのです。問題があるのは、イスラエルの民であります。預言者ミカは、「へりくだって神と歩む」ことをイスラエルの民に求めました。具体的にどういう状況であったかを今日の聖書から読み取ってみましょう。
ここで、注目したいのは、この時代の腐敗です。
『7:1~もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。』
食べられるぶとうの実が一つもない。これは比喩です。この比喩が指し示しているのは、本来あるべき果実、つまり、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」その実が成るはずの木に、何一つ実がない事です。神様の意志にそって、歩む者がいない。それがイスラエルの実態でした。具体的には、どんなことが起こっていたのでしょうか?
『7:2 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。 7:3 彼らの手は悪事にたけ/役人も裁判官も報酬を目当てとし/名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。』
当時の役人や裁判官。つまり、人々の生活を守る立場の人でさえ、平然と賄賂を受け取り、正義を捨てていました。だから、ミカは『7:4~お前の刑罰の日が来た~』と預言します。
『7:5 隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。7:6 息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。』
誰も信じられない。それは、家族や友人さえも、信頼できないという不信感に満ちた世界です。家族であっても、不用意な事を言えば密告されたり、められたりする。当時のイスラエルは、そのような悲しむべき状況でした。役人と裁判官が私利私欲に走っているので、公正な裁きは望めません。家族でさえ、口実を作って、訴える。そうしたあとで、賄賂を使って、財産も社会的地位も奪う そんな酷い国だったのです。
預言者ミカは、このイスラエルの絶望的な状況にもかかわらず、神様の救いを待ち望みます。(7:7)
ミカは、神様に対する「望み」をもって、以下のように預言します。
『7:8 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。7:9 わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。 』
ここで、敵とはアッシリア、エドム、そして最後の敵がバビロンです。やがて、アッシリアは、北王国イスラエルを滅ぼし、バビロンは南王国ユダを滅ぼします。また、エドムは、イサクの長子エサウの子孫が立てた、多神教の国です。北イスラエルが滅びた後、ユダの国はこれらの敵、すなわち異国の神々の攻撃のために風前の灯火でした。しかしミカはイスラエルに向けて、将来への希望を預言しました。
ミカの生きている時、エルサレムはまだ陥落していません。しかし、やがてエルサレムが破壊され、そしてその後に再建されることを、ミカは神様から知らされます。
『7:11 あなたの城壁を再建する日/それは、国境の広げられる日だ。7:12 その日、人々はあなたのもとに来る/アッシリアからエジプトの町々まで/エジプトからユーフラテスまで/海から海、山から山まで。7:13 しかし、大地は荒れ果てる/そこに住む者の行いの実によって。』
あなた とは都エルサレムのことです。その「石垣を建て直す」とは、エルサレムが都として回復することです。ですから、これはメシアの王国が実現するとの預言であります。そして、「その日、国境が広げられ」ます。しかし、その地は「荒れ果てる」のです。なぜならば、かつてイスラエルであった、偶像礼拝をする民が住んだ土地は、その人々の罪の故に、荒れ果てるのです。しかし その先に、最終的な「完全な救い」があります。それは、領土の回復だけではなく、平和で豊かな生活の回復なのです。
『7:14~バシャンとギレアドで/草をはむことができるように。~』
これらの町は、ガリラヤ湖と死海の間にあるマナセの嗣業の地にあります。そのヨルダン川の東側の地区で最北端がバシャンの町。中心地がギレアドの町です。ミカの時代、このマナセの嗣業の地の東側(イエス様の時代はデカポリスと呼ばれるローマ直轄地)は、他国に奪われていて、イスラエルではなくなっていました。その土地をイスラエルが回復することを預言しているのです。
預言者ミカは、最後にこの言葉で結びます。ヤコブとの契約、アブラハムとの約束に希望を歌った、神様への賛美であります。
『7:18 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。7:19 主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。』
預言者ミカは、イスラエルの罪について、神様の赦しがあるとの希望を歌います。実際、ミカの時代、エルサレムの状況は嘆かわしいものでした。エルサレムの神殿で神々、つまり多種多様な偶像を礼拝していたからです。つまり、神殿で堂々と罪を犯していました。そのため、神様はユダ王国を滅ぼすことを決心したのです。しかし、神様はイスラエルを捨てたのではありません。神様は、残されたイスラエルの民のために「咎を除き」、「罪を赦され」るのです。預言者ミカは、「神様は いつまでも怒りを保たれることはない」と、賛美します。
ただ、この希望は、虫が良すぎ だと言えるでしょう。どうして神様は、罪人である私たちを赦すのでしょうか?。その答えは、キリストの十字架にあります。神様の律法は厳格であります。また、神様は、義なる方であります。ですから、神様への罪は、裁きの対象であり、その正義は曲げられません。もし神様がその人を愛するがゆえに、人の罪すべてを見逃し、刑罰を免除するならば、その正義の律法を曲げることになります。それを認めたなら、正義では無くなってしまいます。
・・・しかし、神の子であるイエス様は、人となり、その一身に私たちの罪を背負いました。イエス様は、私たちの身代わりとなり、律法に従順に従いながら、その律法に背く者のために十字架にかかって死にました。これは、神様がイスラエルの国を滅ぼした事よりも、はるかに不条理な出来事です。なぜなら、罪が無いのにイエス様は処刑されたのですから。しかし、イエス様が十字架で死んだがために、私たちの罪は帳消しにされ、その裁きから免れました。これは、罪ある者を赦すための神様の愛の計画です。預言者ミカを通して、私たちの救いのために与えた新しい約束なのです。そして、イエス様は復活し、天に昇りました。この事実によって私たちは、再びイエス様が来る日まで、罪の赦しに与りながら、神の国が来るのを待っているのです。この神様の一方的な愛、そしてイエス様の犠牲によって、神様に不従順な私たちでさえも、赦されました。その恵みによって、私たちの心に神様への畏れと、将来への希望そして今このときの平安に与っています。神様は、そこまで犠牲を払って私たちを愛してくださっています。このイエス様を犠牲にした新しい約束によって、私たちは救われ、希望を持って生きていることに感謝しましょう。また、その希望を与えて下さっている神様を、預言者ミカのように賛美してまいりましょう。