2020年 10月 4日 主日礼拝
『イエス様の招き』
聖書 マタイによる福音書20:1-16
今日は、イエス様のたとえ話からお話をいたします。イエス様は、大勢の前で教えるときに、たとえで教えられることが多かったのですが、そのことについて、ルカによる福音書で、このように語られています。(ほかにも、マタイ13:10-16にあり)
ルカ『8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。』
ここには、2つの意味があります。そのまま、ストレートに読めば、「弟子たちを除いては、神の国の秘密を見ても、見えておらず、聞いても理解できないから、たとえで話している」ということです。原語からもこの意味となります。一方で、意訳と言いましょうか、新共同訳では、前後の文書で読み取れる内容に差し替えた訳が採用されています。
『律法学者やファリサイ派の人々に、邪魔をされないように、彼らにわからないようにたとえで話している』
ですから、イエス様は譬えで話されることで、一般大衆にはわかり易く、そして、律法学者やファリサイア派の人々を刺激しないように(解らないように)、教えられていたということになります。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 順番を大事にする文化で育っている私たちにとっては、イエス様の真逆な言葉に、困惑するところがあります。もちろんたとえ話ですから、そのぶどう園の主人の行動はイエス様の言いたいことを表しています。そもそも、実際のぶどう園のご主人ならばこのたとえのようなことはしないはずです。イエス様だからこそ、「後にいる者が先に、先にいる者が後に」したいと考えなのです。このたとえは、実話とは違って、天の国に入る者の順番を説明したものです。ですから、イエス様の考えに焦点を当てて読み取ってみたいと思います。
参考までに、イエス様は、マタイのこの箇所のほかに、マルコ(10:31)では「神の国に入る人」のことを、ルカ(13:30)では「永遠の命を得る人」について、この言葉「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」を使っています。ですから、この言葉を使って、イエス様が一貫して教えてきたことがわかります。
皆さんは、収穫直前のぶどう畑を見たことはあるでしょうか? ぶどうは、土壌の影響が強く現れますので、土地の区画ごとに出来栄えが違います。そして、収穫するときに、房ごとに品質や熟成度を判定しながら剪定するわけにもいきませんので、畑ごとに収穫時期を決めるわけです。そして、収穫の最盛期になると、多くのぶどう畑で収穫をしなければなりません。当然、人が足りなくなると、労働者を雇うことになります。1年間かけて育てたぶどうですから熟しすぎて無駄にならないように、特に良いぶどう畑の場合は人手をかけても採り終わるわけです。取ったぶどうは、ぶどうを絞る工房に運ばれて、ランク別に絞って素焼きの甕(かめ)に入れる。そこまでその日のうちに進めるのです。(ワインの種類によっては、2、3日熟成してから絞るそうです)
ぶどう園の主人は、ぶどうを絞る工房に入ってくるそれぞれの畑のぶどうの量と絞り汁が入った素焼きの甕の数を見ながら、ぶどうの収穫量を調整していたのでしょう。そこで、人手が足りないと思えば、人を雇いに出かけたわけです。
イエス様は、ぶどう園のたとえを使って、天の国を説明しました。その主人は、夜明け、9時、昼、3時、5時の5回、労働者を雇います。夜明けに雇った人に対しては、一日1デナリ。そして、昼、3時、5時に雇った人には、相応の報酬を約束しました。そして、最後の5時です。まだ、雇われずにその場にいる人たちがいました。すこしのお金でも欲しかったからでしょうか、遅い時間になってもあきらめずに、雇われるのを待っていたわけです。ぶどう園の主人は、働く意思があることを確認すると、何の条件も言わずにぶどう園で働くように言います。
私たちの感覚でいうと、働いた時間がそれぞれ12時間、9時間、6時間、3時間、1時間 ならば、働いた時間に比例した賃金がふさわしいということになります。しかし、ぶどう園の主人との契約を考えた場合、夜明けに雇われた人達が1日1デナリであること以外には、何も決められていません。
また、5時に雇われた人たちは、「収穫をまにあわせる」という高い価値を持っていたという考えもあるでしょう。5時から雇われた人たちは、ものすごくバリバリ働いたので、仕事がはかどった。つまり、その労働の質が高かったと解説をしている学者もいます。しかし、どちらの指摘も当たっていないようです。「収穫を間に合わせる」価値を考えると、夜明けに1人多く雇っていれば、5時に12人雇ったことと同じ収穫が見込めます。いくら上等のぶどうと言っても、12倍の費用をかけても釣合う高い価値はないと思われます。また、素晴らしい能力がある人が5時から来て、人の3倍働いたとしても、1時間の労働に1デナリを払うことは、経済的な判断ではないのは明らかです。ましてや、大規模なぶどう絞りの運営、つまりぶどう酒造りが一大産業になったのは、今から6000年前の事ですから、2000年前のイエス様の時代に、5時に人を雇わないといけないほどの作業の読み違いは、あろうはずはないのです。
そういうわけで、このぶどう園の主人は、仕事に必要な人数を経済的に計算していたとは考えにくいです。また、そもそも仕事が終わりかけているときに、労働者を求める必要もないはずです。このぶどう園の主人は、私たちの感覚とはまったく異なった価値観で行動しているとしか思われません。
イエス様のこの譬えでは、すべて雇われた人への報酬は1デナリでした。今のお金でいうと日給1万円弱と考えて良いでしょう。同じ1デナリでは不公平なので、長い時間働いた人たちは、より多くの報酬を受けて当然という考えが、一般的だと思います。また、雇われるのを待つ時間と働いた時間を足せばどの労働者も同じだとか、不安なまま雇われるのを待っていた人の方を優遇したいとの考えがあると思います。ぶどう園の主人は、不安なまま雇われるのを待っていた人の方を優遇したいと、考えたのは明らかです。ですから、ぶどう園の主人が最初に賃金を払ったのは、最も働いた時間が短い人たちでした。
この譬えでイエス様が言いたかったことは何かを考えるときに、この前の記事が、参考になります。
マタイ『19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」』
この聖書の箇所には、2つの問いがあります。1つ目は、弟子たちが言う「だれが救われるのだろうか?」という問いです。お金持ちではあるけれども信仰にあふれている青年をさして、「金持ちが神の国に入るのは難しい」とイエス様が言われたからです。
2つ目は、ペトロの言った言葉です。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
この2つの問いの答えが、今日の20章であったとすると、この様に読むことができると思います。
1つ目の問い。「だれが救われるのだろうか?」 その答えは、「すべての人。神様にはそれができます。」ということです。 ぶどう園の主人は、最後に取り残されている人をわざわざ見つけに行って、ぶどう園に雇い入れました。一人も残さないで救われることをぶどう園の主人は願っていたのです。そして、すでに雇われたものも、最後に救われたものも、同じ賃金を頂きます。イエス様にとって、救われたことに価値があるのです。そして、あとから救われたもの程、不安な中を過ごしてきたのですから、沢山の配慮をしてあげたいのです。神の国での価値は、商業的な対価とは全く違います。一人が救われたその価値は、先であろうと後からであろうと全く同じなのです。
そして、2つ目のペトロの問い。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」これは、ぶどう園に最初に雇われた人たちのつぶやきと、似た内容です。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
ペトロは、早くからイエス様に従って働いていましたから、あとから信仰に入った人よりも多くのものをもらうことが当然と思っていたのでしょう。また、神の国に入れるかどうかについては、聞いていませんから、ペトロは、神の国に入るものと思っていたに違いありません。
イエス様は、これらのことをたとえでお答えになられました。すべての人を救いにイエス様は来られたのだから、すべての人を神の国に入れるように されると言うことです。また、早くから信仰を持っていたからと言って、何も多くを頂くわけではありません。皆がイエス様への信仰を頂いているのですから、それ以上に頂く必要はないのです。そして、イエス様が一方的にされたことは、皆に対して充分だったのです。ですから、人と比べて多い少ない、前か後かを気にする必要はないのです。イエス様にとって、誰もが必要な一人であり、充分に顧みてくれるのですから。
ペトロやほかの弟子たちは、これを理解できたのでしょうか?このたとえへの直後のやりとりを見ると、彼らは、明らかにイエス様のたとえの意味が分かっておりません。ですから、弟子たちがこの譬たとを理解したのは、イエス様の十字架と復活の時が来た後と思われます。
このたとえを読み解いてみると、私たちの常識と言いますか価値観というものは、打算のようなものに支配されているのだなと思いました。イエス様は無条件に私たちのことを思い、私たちのそれぞれに最善を備えてくださいます。それにもかかわらず、私たちは「私の価値を認めてほしい」、「私を先にしてほしい」との条件を付けてぶどう園で働いているのでしょうか? 決して条件付きで神の国の働きをしているわけではありません。でも、神様から充分に満たされている今があるのですが、さらに「満たされたい」と思ってしまうのですね。私たち人間の限界なのかもしれません。「必要は満たされている」それでも、満足できないのです。
しかし、最後に雇われた人たちより後に、前から雇われていた「つぶやいた人たち」も救われていることは、大変感謝のことです。このように、「満たされたい」という気持ちを抑えられない私たちさえも、イエス様はお迎えに来てくださいますし、私たちの必要はいつも充分に備えてくださるのです。
私たちは、イエス様に招かれています。そして、イエス様は多くの人たちを、最後の一人まで招かれております。ですから私たちは、後のものが先になることを目撃することもあるでしょう。たぶん、その時はお許しください「つぶやいてしまう」でしょう。それでも、イエス様は「つぶやいた人」をもそのまま受け入れ、招いてくださるのです。イエス様の招きに感謝して、お応えしてまいりましょう。