ガラテヤ5:16-25 

 霊の導き

2020年 12月 27日 主日礼拝

『霊の導き』

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5:16-25 

 先週は、イヴ礼拝を行ないました。無事に年末を迎えられたことを感謝するとともに、来年の飛躍を願ってお祈りしたいと思います。

今日はガラテの信徒への手紙から学びます。ガラテという場所は、現在のトルコで、小アジアに位置しています。パウロ自身が、このガラテヤで伝道し教会を起こしましたが、パウロが去ったあとにパウロとは違う教えが入ってきたために、パウロはこの手紙を書いたといわれています。それは、ユダヤ教の伝統的な律法による生活で育てられた人々が、イエス様を信じるようになった。・・・そういう人たちの中に、伝統的なユダヤ教の律法を重んじる教師たちが入って来たという事です。

 パウロ自身は、律法を養育係と呼んでいますので、律法自身は良い手本だと考えていました。

(参照:3:24『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。』)

 しかし、律法を利用すること。つまり、律法を盾にして、肉の思いを通すことに批判的でした。パウロ自身もかつては、律法を利用して迫害を行って、そして社会的立場を上げていたことを告白しています。そんなことがあるものですから、パウロは律法を用いることについても、その背景にイエス様の霊が働かなければならないと考えていたのです。

 また、ガラテヤには、別な課題もありました。ガラテヤの信徒への手紙は、他の宗教から入ってきた人々、つまりキリスト教に改宗した人たち向けに、またもとの異教徒に戻ってしまわないように呼び掛けています。

(参照:4:8『ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。』


 真(まこと)の神をパウロが語ったので、信仰に入ったはずの元異教徒たちですが、信仰がぐらついていたと思われます。信仰のリーダーであったパウロが次の伝道の地に出て行った後、「ガラテヤの教会は大きく揺れ動いていた」と言えるでしょう。少なくとも、パウロの教えと、伝統的な律法の教えで混乱して、教会が一つにならない状態が、課題だったわけです。そして、元異教徒たちへの心配があります。教会の中にあっても、色々な人々の思いがあります。パウロと言う強烈な指導者が去ったあとですから、なにかと意見がまとまらずに、混乱してしまったことが容易に予想できます。なにしろ私たち人間の限界なのでしょうか。? 他の人と意見の違いがあるとすぐにでも派閥を作って、数の力で自分の意見を押し通そうとしてしまいます。さらに酷い事ですが、自身の立場を高めるために派閥を作る事さえ、人間はしてしまうのです。このような行動は、イエスキリストの霊による行いではありません。「人の、肉の思いそのもの」だと言えます。パウロは、このようなガラテヤ教会の状況を知らされる中、ガラテヤに戻って指導したかったと思われますが、手紙をしたためました。その理由には諸説はあります。その一つは、コリントにいたパウロは、エルサレムに向かう事を決めており、その後ローマそしてスペインへ伝道に向かう予定だったから と言うものです。ほかにも、説がありまして、すでに獄中にいたので、どこにも行けなかったということかもしれません。いずれにせよ、パウロはガラテヤに戻って指導を行うことは、そうしたくても、実現できなかったのだと思われます。

 

 そこで、パウロは、このようにお勧めします。

ガラテヤ『5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。』

 伝統的なユダヤ教で育った人々にも、他の神々への信仰から改宗した人々にも同じ一つのこと「霊の導きに従って歩みなさい」と教えました。それが、パウロの出した解決法でした。つまり、「律法を守りなさい」という習慣について肯定も否定もしないで、イエス様の霊にだけ焦点を当てました。自分のしたいことは、イエス様の霊から出た物ではない。だから、自分のしたいことは肉の思いや欲望でしかないとパウロは、教えるのです。「霊の導きに従って歩む」ならば、「自分のしたいこと」はできなくなる とまで言います。パウロは、「自分のしたいこと」を「肉の欲望」と呼びました。「霊の導き」と真反対のことです。ですから、「霊の導き」は、「肉の欲望」とは相いれ無い と主張します。このパウロの主張は、たとえ律法という神様から頂いた戒めであっても、「自分がしたいと思う」「肉の欲望」のために用いるのであれば、「イエス様の霊に反する」ということを導き出します。

 パウロのこの箇所の言葉は、実はかなり厳しい言い方をしています。先ほどは、パウロは「お勧めをした」と言いましたが、実は強い命令の言い方なのです。 

皆さんの使っている新共同訳では、(5:16後半)

『霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』と訳されていますが、直訳するとこんな感じです。

「霊によって歩きなさい、そして肉の欲望を終えるように。」

このような言い方をしたのですから、パウロは、「霊によって歩きなさい」という命令に加えて、「肉の欲望を終えるように」強く迫っています。つまり、ゆるく お勧めをしたわけではないのです。「霊によって歩きなさい」、そのためには「肉の欲望」を断ち切りなさい と命令したのです。

 

パウロは続けます。

ガラテヤ『5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。』

律法の下にいるとは、律法に従うことを指しますが、霊に導かれることとは、イエス様のご意志に従うという事です。霊による導きも律法も、神様が私たちに与えてくださったものです。しかし、霊による導きは、イエス様のご意志でありますから、律法と言う手段より上位にあります。

一方で、パウロは、「霊の導き」の正反対である「肉の欲望」の結果を 15個も挙げています。(5:19)それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

さらに、『このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。』

と断言するのです。


 非常に厳しい言葉です。私たちは、耳をふさぐしかないのでしょうか?とても、この肉の欲望から逃れ切れるとは言いきれません。どうすればこの肉の欲望を断ち切ることができるのか? 答えをみいだすこと、そして自力でやり遂げる自信は、私たちにはありません。

私たちが、「霊の導き」ではなく「肉の欲望」に支配される性質を持っている事について、考えてみたいと思います。そもそも、パウロの言うことは、厳しすぎるとも言えます。パウロは、ガラテヤの教会の人たちに、そして私たちに出来もしないことを要求しているように感じられるからです。いったいなぜ、パウロは私たちのどうしようもない性質を責めるのでしょうか? それを知るためには、聖書の続きを読まなければなりません。

 

ガラテヤ『5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。』

 

 肉の欲望の結果得られるのは、先ほどの15個の肉の業ですが、

霊の結ぶ実は、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。イエス様の霊は、私たちキリスト・イエスを信じるようになった者に働いて、キリストの犠牲によって、肉の欲望を十字架につけてしまった。パウロはそういうのです。つまり、イエスキリストの十字架によってのみ、私たちの肉の思いを終わらせることができるのです。決して私たちの力では、肉の欲望に打ち勝つことはできません。しかし、イエス様であるから、そしてイエス様が十字架にかかって私たちの罪をあがなってくれた方だから、イエス様は私たちにイエス様の霊をお送りになって導いてくださるのです。そして、その霊の力によってのみ、肉の欲望を抑えることができるのです。

 

 パウロは、「霊の結ぶ実を禁じる掟はありません。」と言っております。律法を構成する一つ一つの掟どれを取ってみても、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を否定したり、禁止したりしていないのは当然です。律法とは、これらの霊の結ぶ実を得られるために作られたものです。しかし、私たち人間は、目的を取り違えて、自身の「肉の欲望」のために、律法をも使ってしまうのです。

 

 パウロは続けます。

ガラテヤ『5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。』

 

 ガラテヤの教会にこのような言葉を投げかけるのですから、ガラテヤの教会は、「霊の導きに従うことに迷い」があり、そして「うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみあったり」していたことになります。また、これは私たちにもそのまま言えていることだと思います。クリスチャンとなった私たちも、人の思いである肉の欲望を容易に捨て去ることはできません。

 

ところで、コヘレトの言葉に、こんな言葉があります。

コヘレト『4:4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。』

 

 この世の中に虐げる者が居ます。そして、その虐げを受ける人が居ます。どちらも、苦労します。その虐げをするために、そしてされたために苦労をするのです。コヘレトは、虐げた人と、その虐げを受けた人を指して 空しいと言います。才知を尽くして苦労している、その苦労は仲間に対する競争心が原因だとコヘレトは言います。競争心のために、無限の苦労が待っているわけですから、その苦労には意味がなくて空しいのです。

 

 ガラテヤの教会に話を戻しますが、ガラテヤの教会の中で指摘された肉の欲望は、「うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみあったり」という事を引き起こしました。それは、「仲間と比べる」そして「仲間より上に」なるための行動から引き起こされます。これこそ、肉の欲望であるわけです。・・・人を見ていては、コヘレトの言うように空しいばかりです。

しかし、私たちにはイエス様がおられます。そして、私たちの肉の欲望はイエス様と一緒に十字架にかけてしまっているのです。イエス様を見てください。そしてイエス様に祈りながらイエス様の霊に従ってまいりましょう。