Ⅰテモテ6:3C-16

 人々の手本となるように

2024年 5月 26日 主日礼拝

人々の手本となるように』   

聖書 テモテへの手紙6:3C-16 


 今日は、テモテへの手紙一からみ言葉を取り次ぎます。この手紙を書いたのはパウロだとされています。宛先のテモテとはどんな人なのでしょうか? 使徒言行録(16:1)によると、父親がギリシャ人で、母親がユダヤ人であり、キリスト教の信徒であります。そして、テモテ自身も弟子なのですから、聖書に明確に書かれている唯一のキリスト教 二世なのであります。パウロは第一回伝道旅行の時にリストラの町で若いテモテに出会いました。パウロはテモテを気に入って、第二回伝道旅行と第三回伝道旅行には同行させます。それ以後テモテは、パウロの良き協力者として、テサロニケ、コリント、フィリピ、エフェソに派遣されています。また、パウロの書簡のなかには、テモテとの連名となっている手紙がありますから、強い協力関係が伺えます。また、史実とする証拠はありませんが、パウロとテモテの関係を示した伝承があります。パウロはテモテに按手をして、エフェソの教会の主教に任命したとのことです。

 エフェソは、古代の世界七不思議に数えられたアルテミス神殿の門前町です。この多神教の町エフェソは、パウロや後継者たちの伝道の結果、5世紀末には、キリスト教の町に変えられました。


さてこの手紙ですが、パウロが亡くなったであろう紀元64年ごろに書かれたとされています。この手紙の冒頭(1:3)にエフェソからマケドニアに向けてのパウロの旅がありますから、第3次伝道旅行の途中だとわかります。使徒言行録の記事から見ると、パウロは紀元55~56年ごろに、エフェソからマケドニアに向っている様です。ですので、手紙が成立した年と一致しません。そんなことから、パウロが書いたことを疑う人がいます。しかし、弟子が書いたとしても、パウロの最後の教えをまとめた書簡であることはたしかです。


Ⅰテモテ『1:3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。』

この記事から、エフェソの教会には、偽教師が複数いたと言えます。パウロと異なることを教えている とパウロは知らされていました。また、偽教師が作り話と偽の系図を作る事に時間を割いたことも、パウロは聞いています。パウロは、作り話と言いました。それは、新たな神話や教訓話を指します。パウロにとっての重大な事実はイエス様の福音だけです。それ以外に事実でない話を、わざわざ作る意味も話す意味もありません。また、教会が混乱しなように、教えはブレてはいけません。


 今日の聖書の、中心は11節から16節です。前半部分は、11節に書かれている「これらのこと」であります。短く言い表すならば、「イエス様の福音と異なることを教える」とか、「金持ちになろうとする」ことです。これらは、偽教師たちの高慢さと貪欲さから出たものであり、争いの原因となります。神の人であるテモテは、これらの高慢さ貪欲さを、避けなければなりません。

 ここで、パウロは、テモテの事を「神の人」と呼びました。「神の人」とは、旧約聖書では、神様に遣わされた使者(天使、預言者)の事です。新約聖書で「神の人」とは、イエス様に忠実な すべての正しい人と言う意味になっていたようです。預言者や先生という意味でなくなっていたとしても、年配のパウロが、まだ若いテモテに「神の人」と呼びかけるところに、テモテへの尊敬と期待、そして敬意が読み取れると思います。


 パウロは、テモテに「これらのことを避けなさい」と言いました。もちろん、あってはならない事を避けることも必要ですが、神の人として「あってほしい姿」があります。そこで、パウロはこのように続けます。

『正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。』

偽教師たちのような「高慢や貪欲」を避ける。それだけでは、神の人と呼べません。では、神の人は何を追い求めたら良いのか? それは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、と柔和です。


 「正義」とは「神様の前に正しいこと」であります。また、「信心」とは、神様を畏れ敬い服従することです。(新共同訳で「信心」と訳している元の言葉は、神様を畏れることを指しています。)「信仰」とは神様に信頼することです。「愛」は、神様が無条件で与える愛です。「忍耐」とは困難な状況にあってねばり強くやり抜くことです。これも、人の忍耐を指すのではなく、神様の忍耐なのであります。この神様の忍耐とは、「どれだけ耐えればよいのですか?」と言った、言い訳のために限界を設定するような人の忍耐とは比べられません。最期に、「柔和」とは「優しさ」と言い換えて良いでしょう。これも、ただの優しさではありません。神様の優しさであります。すべては、イエス様だったらどうするか? そのことを追い求める。それがパウロの考える神の人の姿なのであります。


 パウロは、テモテに対し、非常に高い目標を示しましたが、さらに行動についても、高い目標を示します。

『6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。』

 この言葉は、厳しいものです。結果を求めているからです。私たちは、ある程度の努力をもって、「努力はしたんですが、ダメでした」と言えば許されるとどこかで期待してしまいます。しかしパウロの言葉では、途中経過でも「立派に戦いなさい」です。そして、あきらめずに戦い続け、そして成果として「永遠の命を手に入れなさい」。・・・ここで求められているのは、「結果責任」だと言えます。一般的に、責任には2つあります。ひとつは、言われた手段を実行して、その結果を報告することです。英語ではresponsibilityに相当します。文字通り、言われたことに応答していく責任です。ですから、会社の社長と社員を例に考えると、社員の方の責任ですね。もう一つの責任が、結果責任です、英語で言うとaccountabilityですね。これを、説明責任と訳して、説明さえすればそれでOKだと言ったとんでもない風潮がありますが、それはごまかしであります。この結果責任には、目標を示す責任、結果を出す責任、結果に影響する問題を見つける責任、問題を解決できる人を探す責任、問題の解決をあきらめない責任、そしてその一連のプロセスを説明する責任があります。これは、明らかに会社を例にすれば社長の責任なのであります。パウロがテモテに預けたのは、このエフェソの教会のトップとしての責任です。そしてさらに加えているのが、「立派に戦いなさい」なのです。なりふり構わず、結果を出せば良いのではなく、立派に戦うことをパウロはテモテに求めたのです。


 ところで、「永遠のいのち」は、イエス様を信じる者に与えられる賜物であります。イエス様を信じているテモテにわざわざ言うことではありません。当然ながらクリスチャンはみな、「永遠のいのち」を約束されていると信じているからです。それは、良く知られている聖句でも明らかです。

ヨハネ『3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』


 この神様の計画は、成就します。だから、永遠のいのちは頂けるはずです。では、なぜ改めて「永遠の命を手に入れなさい」とパウロはテモテに言うのでしょうか。?どうも、ここにはパウロの強い思い入れがあるようです。パウロがこんな証をしていることに、注目したいと思います。

1テモテ『1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。』


 これを見ると、救いの完成という目標に向けて、パウロは、テモテに自分と同じ道を歩んでほしいと、望んでいます。だから、テモテに、自分と同じ様に「永遠の命を得ようとしている人々の手本となる」ことを求めたのです。そして、それは召命つまり、神様がテモテに与えた命令なのです。テモテはその召命を受けて、エフェソの教会に立てられたのです。


『6:13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。6:14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。』


 最後は「この掟を守りなさい」ということですが、「掟」とはどの部分を指しているのかは明確に書かれていません。ですから、この手紙で言っていることすべてと判断してよいと思います。パウロは、神様の前で、そしてイエス・キリストの前で、テモテに命令します。これは、神様の命令だと言うことです。神様は、この世を創り、そして神の国を支配しています。また、ポンティオ・ピラトはローマの総督ですから、ローマという大きな国の社会秩序を守る役割を担っています。一方で、イエス様は、神様の秩序と、ローマ社会の秩序の間に立ちました。そして、「では、お前は神の子か?」とのピラトを前にした尋問に、イエス様は「はい、そうです」と証しをしました(ルカ22:70)この「救い主はイエスである」とのキリスト・イエスの証しによって、神様の計画が次の段階へと進みます。そして、ローマ社会の秩序も守られました。その結果イエス様は、神様の救いの計画のために十字架で犠牲になったのです。そして同時に、ローマ社会の秩序のためにも犠牲になったのです。このようにイエス様は、神様のために、そして社会のために、立派に戦いぬきました。そして、苦痛に耐え、そして私たちの罪を贖いました。復活したイエス様が再び来られるときのために、テモテはこの手紙に書かれた掟を守る。それは、結果として、テモテがパウロの様になることです。そしてそれは、テモテが永遠のいのちを得ようとしている人々の手本となることです。

 パウロが神様の名によって命令した「信仰者の手本となる」ことは、信仰を告白してクリスチャンとなった私たちすべてに求められます。パウロやテモテのような偉大な仕事は、私たちには出来そうはありませんが、イエス様は私たちにできる奉仕を準備し、そしてその仕事に招いてくださいます。一人も滅びることが無いように、私たちもイエス様の御用を手伝いたいですね。そのために、祈ってイエス様を信じる信仰を証して、そして祈って「永遠のいのち」を求める者の手本となるように努めてまいりましょう。