ルカ20:9-19

教会の頭

2021年 3月21日 主日礼拝

『教会の頭』

聖書 ルカによる福音書 20:9-19

詩編『118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。

118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。』

 隅の親石(κεφαλὴν:頭 γωνίας:隅)とは、あまり聞きなれないと思います。原語から直訳しますと、ギリシャ語でもヘブライ語でも 隅の頭(すみのかしら)と言う意味です。

 隅と言うのは四隅のことです。原語では石かどうかは書いていませんが、家を建てる者が捨てた石が元であることは間違いありません。また、英語では、基礎になる石のことをcorner stonesと言いますが、聖書では、単数形となっています。ですから、四隅に置く基礎石4つのことを指しているのではなく、家の基礎そのものとなったことを指していると考えて良いでしょう。また、頭(かしら)とわざわざ表現しているように、家を教会やイスラエルの国に譬えるならば、頭とは、ただ一人の救い主であるイエス様のことだと思って読むと良いと思います。家を建てる者が捨てた使い物にならない石を、家の基礎にするわけですから、普通はやらない、ありえないことです。しかし、神様はそのような事がお出来になる方なのです。(参考:アーチの最後に打ち込むくさび(要石:keystone)の事だという説もありますが、ヨブ記では台座(ペデスタル)を指すので、明らかに別物です。)

 

 旧約の時代から、イエス様によって齎(もたら)されることが預言されていたのです。今日の聖書の箇所では、イエス様は民衆と律法学者たち、そして祭司長たちにたとえ話をされました。ぶどう園の主人と農夫たちの物語です。ぶどう園の主人は神様、ぶどう園は神の家と重ねて読むとよいでしょう。農夫たちは、イスラエルの民をさしています。その主人は、ぶどう園を農夫たちに預けていましたが、収穫の時期になると僕を送って、収穫の一部を差し出すように伝えます。しかし、3回も人を代えて僕を送りましたが、農夫たちは考え直すことをしませんでした。このぶどう園の主人の僕たちは、旧約聖書に出てくる預言者たちを指します。そして、ぶどう園の主人は、とうとう彼の息子を送ることにします。自分の息子であれば、農夫たちも敬ってくれるだろうという事です。しかし、農夫たちは、その息子をも殺してしました。ぶどう園を自分たちの物に出来ると思ったからです。これは、イスラエルの民が、神の子を敬うとどころか、殺してしまう事を指します。イエス様は、このたとえ話で、民衆と律法学者たち、そして祭司長たちに、これから起こることを示されていたのです。

 

 イエス様は、言います。『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言いました。彼らは、「農夫たちのひどい行い」を指して、あってはならないと言ったのだと思われます。そしてこの時は、律法学者たちや祭司長たちは、自分たちのことをぶどう園の農夫に譬えられていることに気づいていません。そもそも、彼らは、神様を畏れ、そして神の家をしっかり支えているという自負を持っています。ですから、律法学者たちや祭司長たちは、その農夫たちの行いはあってはならないと心底思ったのです。

すると、イエス様がこう言います。

「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』」

この意味を理解するために、家を建てる者とは、律法学者たちと祭司長たちのこととして、読んでみましょう。すると、律法学者たちと祭司長たちが、受け入れなかった石は誰の事かがわかってきます。そう、イエス様です。イエス様は、律法学者たちや祭司長たちから見捨てられますが、神の家の頭となられるわけです。

イエス様は続けます。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

 これは、イザヤ書からの引用です。

イザヤ『8:14 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。8:15 多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ/罠にかかって捕らえられる。』

ここには、イエス様を受け入れなかった律法学者たちや祭司長たちが、イエス様につまずいて、倒れ、そして打ち砕かれることが預言されています。そして、彼らには「裁かれる時が来る」ことを預言しているのです。

イエス様は、民衆と律法学者たち、そして祭司長たちの目の前で、数多くのしるしをお示しになりました。しかし、イエス様の権威を「認めない」と決めてしまった律法学者たちや祭司長たちは、イエス様に躓いていました。彼らが求めていた救い主とは、違っていたからです。彼らには、イエス様を信じることが、難しかったのです。そして、自分でつまずいて転んで、打ち砕かれてしまうのです。また、イエス様は、「裁きの時が来ると、その石が落ち、躓いた者が押しつぶされてしまう」ことを預言します。

 この国、この神の家の建設は律法学者たちや祭司長たちに任されていました。しかし、彼らから取り上げられ、そして異国の民のものになる。そして、その神の家の基礎石にはイエス様が頭として据えられ、祭司長たちはイエス様につまずき砕かれ、最後の日には裁きの時を迎える。そのように、イエス様は言われたのです。

 

 結局イエス様は、イザヤ書を使って律法学者たちや祭司長たちがイエス様を信じていないことを指摘しました。そして、彼らが裁かれることをお話されたのです。そうすると、先ほどのぶどう園をほしいままにする農夫たちが、律法学者たちと祭司長たちのことだという事に、気が付くでしょう。神の家を任されている者が、こうして神様を畏れず、その息子までを殺したので、必ず裁かれる。そして、神の家は異国の人のものになっていく。律法学者たちや祭司長たちは、「そんなことがあってはならない」と言いました。しかし、そう言う彼らは、事実としてイエス様を受け入れていません。そしてさらに、神の家をほしいままにする農民に譬えられていたのです。・・・律法学者たちと祭司長たちは、怒りました。しかし、民衆を恐れたので、イエス様に手を出すことができませんでした。

 

 この譬えのとおり、律法学者たちと祭司長たちは、神様の家を建てるときに、イエス様を受け入れずに、捨ててしまったのです。そして、大きな石を組んで神様の家を建てたのですが、崩れ去って粉々になってしまいます。(事実、紀元70年には神殿が崩壊しています。)どんなに立派な石を切り出して、頑丈な教会を建てたとしても、そこにイエス様への信仰が無ければ、ただの建物でしかありません。

そして、農夫たちの貪(むさぼ)り。この譬えに出てくるぶどう園の農夫たちの様に、教会というぶどう園をわが物顔で、好き勝手なことをすることは、あまり考えられないことです。しかし、物、名誉、支配に対する達成感、満足感等をむさぼる事は、人が集まるところに起こりえます。私たちは、やはり誘惑に負けてしまうからです。ですから、そこにはイエス様が必要なのです。

イエス様は私たちのことを無条件に愛し、そして寄り添ってくださいます。私たちは、イエス様に祈って、イエス様に倣いたいですね。ここで注意したいのは、イエス様に倣って「我慢しなさい」という事ではありません。むしろ、「我慢しない」で、イエス様にお話ししなさい。まずは、すべてをイエス様に受け止めてもらいましょう。そのために祈る人、祈る教会になっていきたいのです。それが、十字架にかけられたイエス様を頭とした、教会の姿だと信じます。教会は、イエス様の十字架の出来事によって、イエス様に祈り続けることによって、新しく生まれ変わり続けるのです。

 

 ところで、2020年度は受難の年でした。コロナ過がだいぶ落ち着いたとはいえ、一時は、教会が礼拝を継続できないという事態までに至りました。神様は、この受難を何のためにこの世にお送りになったのでしょうか? 神様は、なぜこの受難を避けてくれないのでしょうか? などと、疑問を持つこともあると思います。

私は、コロナウィルスも神様が造られたものだと考えています。そして、受難の時も、復活のためには必要でした。だから、神様が受難の時をご用意されたのだと考えます。同じように、私たち一人一人が、神様の意図があって造られたと考えて良いでしょう。そして、目にも見えないちっぽけなコロナも神様の造られたものなのです。・・・残念ながら、私たちには神様の意図はわかりません。そして、その意図の結果の一部だけを見ているわけですから、神様がうまくコントロールできている結果なのか、それとも神様は何もされていないのかも、わかりません。そして、今人類がコロナ医療で、できる事と言えば、隔離と療養、そしてワクチンだけです。薬もまだありません。しかし、ウィルスの設計図を読み取り、RNAをハサミで切り取ってのり付けするという作業をしました。そうやって毒性を抜いたウィルスを菌の中で育てたのが最新のワクチンです。ただ言えることは、つぎはぎでしかありませんが、神様の造られた大きな仕組みに乗っかって、外側がコロナウィルスそっくりのワクチンを作ることができたという事です。その評価にはまだ時間がかかると思われます。

 さて、どうして、このような毒性がさほど強くなく、発症する前に感染すると言う質の悪いコロナウィルスができたのでしょうか?一般的には、時間と共に繰り返される、自然の営みの中での変化だと思われます。疫病の長い歴史のなかで、私たちが経験して記録が残っているのは、100年くらいの間です。ですから、コロナのことを知り始めたばかりで、科学的な見地からメカニズムも分からなければ、次に何が起こるのかも容易には予見できません。つまり単純に「知らないがゆえ」に不安になっているという面が大きいのです。実際に、同様の危機は人類には何度も起こっていたと考えても不自然ではありません。

そして、その不安のために「なぜコロナ?」と、神様に尋ねたくもなります。

 もし、コロナ等の禍を例えば「神様が与えた試練」だと考えるなら、私はヨブ記を思い出します。多くの試練を神様から受けたヨブは、神様に向かって嘆きました。その時の神様の答えを読みますから聞いてください。

ヨブ記『38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。38:2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。38:3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。38:4 わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。38:5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。38:6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。』(隅の親石→原語は「石」の単数)

 神様は、確かに最初からおられて、そしてこの世を造られました。私たちは、その意図も知らなければ、どんな手順で、どのようにしてこの世を造られたのかも知りません。ヨブが、嘆いたその禍も神様の意図によるものでした。ヨブは、その禍の間、神様に向かって激しく嘆きました。ですから、ヨブの頭(かしら)は神様であり続けたのです。そして、その創造の神様はこの世を造られたときから、イエス様をこの世に下さる意図がありました。イエス様を教会の基礎石にすることを計画し、すでに実行されていたのです。

 ヨブの物語もご計画の一つであると、考えるならば、神様はその計画を成就される。私たちは、そこに信頼していきたいと思います。

 

 この世を創造された神様に感謝をして、イエス様が頭となる教会を立ち上げてまいりましょう。そのためには、イエス様に祈ってまいりましょう。また、受難週に向けて、そしてイエス様が復活する時を覚えて、神様のご計画に感謝をもって祈ってまいりましょう。