黙示録1:1-8

イエス様の証

 2020年 11月 22日 主日礼拝 

『イエス様の証』

聖書 ヨハネの黙示録1:1-8 


 黙示録はヨハネがアジア州にある七つの教会へ送った手紙であります。(末尾に地図を添付します)

また、黙示とは黙って示すと書きますが、元の意味は、「解き明かす」と言うことです。暗黙のうちに意思や考えを表すことを黙示と言いますので、わかる人にはわかるように、わからない人には気が付かれないようにしたのが黙示だと理解してください。つまり、暗号が含まれた文書なのです。

 ヨハネが送った手紙の宛さきである七つの教会とは、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアです。そして、これを書いたのは使徒ヨハネだと言われています。ヨハネは、伝承によるとイエス様の母マリアを伴っていました。エフェソスに住んでいましたが、パトモス島に幽閉されていたころに黙示録を書いたとされています。これが事実ならば、ヨハネのかつての活動拠点に送った手紙だということができます。

 ヨハネの黙示録には、「復活されたキリストが父なる神様から受けた黙示を伝えるためにヨハネに天使を遣わした」と書かれています。そういう意味でこの手紙は「イエスキリストの黙示」なのです。1章1節を読んでみましょう。

『1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。』

黙示は、神様→イエス様→天使→僕ヨハネ と伝えられてきたことがわかります。それにしても、どうして直接のやり取りではなく、伝言なのでしょうか?それは、「神様の顔を見るだけで死んでしまう」と考えられていたからです。


創世記32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。』 これが、そのことがわかる記事す。

 このような、神との近づきがたさが、伝言を必要としたと言えます。そもそも、罪深い存在である人間ですから、聖なる神様の直接の語りかけに耐えることができません。そこで、イエス様は人間と神様の間をつなぐ仲介をしてくださっているのです。そして、私たち罪人が理解できるように読み解きを加えることで、私たちが受け入れられるようにしてくださっています。神様がお決めになったこと、そして将来起こること、を神様の僕である私たちに伝えるために、イエス様は黙示をお受けになったのです。


 ですから、「ヨハネの黙示録」はヨハネ自身の考えではなくて、イエス様の証を記された書物です。このことは2節からわかります。

1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。』


 ヨハネは神様からの言葉とイエス様の証を書き記しました。ヨハネは神様の御言葉とキリストの証について、ヨハネ自身が見て・聞いたことの全てをこの黙示録に書いたのです。なぜ、「ヨハネの考えではない」ということを強調するかと言いますと、神様の言葉として読まなければ、「ヨハネの黙示録」を正しく読むことができないからです。この黙示録は、人間が作り出したものではありません。神様が「私たちに必要」な言葉を与えられたのです。したがいまして、「人の思いで都合の良い読み解きをすること」を慎む必要があります。

 

神様がイエス様に黙示を与え、ヨハネに伝えたのは、その黙示が教会で読まれることによって、キリスト者に伝えるためです。黙示は、その謎めいた書き方のために、人間の好奇心を焚きつけるかもしれません。しかし、黙示の中にある預言を信じることによって、「将来の正しい判断ができるように準備する」ために示された物なので、読み解きは慎重でなければなりません。

 

 今日の聖書の箇所で、預言と言える箇所は二つあります。

一つ目は、   『1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。』、

そして二つ目は、『1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」』です。

 

 どちらも、イエス様が再び来られる「再臨」の預言ですが、一つ目はこの世の終末を思い起こさせます。また、二つ目は、イエス様が創造の時から今までいる神様であり、そして再臨される神様であることを思い起こさせます。ギリシャ語のアルファベットでは、最初の文字はアルファ、最後の文字はオメガです。一般的にこの箇所は、イエス様は御自分がすべての者(物)の初めであり終わりである、と言っておられると解釈されています。

「ヨハネの黙示録」には、このような終末の話題がありますが、終末の時代のためだけに書かれたのではありません。いま生きている、私たちにどのようなメッセージを送っておられるのか?そのことを考えていましょう。

 

  黙示録の1章3節で、この預言の言葉を読み、聴き、信じて守る人のことをヨハネは、幸いな人と呼びます。黙示録は、この幸いな人(μακάριος)個人個人にあてて書かれたものです。ここで、「幸いな人」の原語は、祝福される人、幸せな人、うらやましい人を意味します。マタイによる福音書でも、マタイ『5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。』という有名な聖句がありますが、黙示録と同じ幸いな人々(μακάριοςの複数Μακάριοι)という言葉を使っています。「幸いな人」とは、どのような人を指すのでしょうか?。マタイ5:3は、「心の貧しい人々は、幸いである。」と訳されていますが、原語と前後関係を考えて訳してみると、「心が貧しい人ほど祝福される」と言う意味に読み取ることができます。

 「心の貧しい人々は、幸いである」との表現の中で注意しなければならないのは、「幸いな人」という言葉が、ふたつの意味に使われていることです。ひとつは、文字通り「しあわせな人」のことです。もうひとつは、神様によって「祝福される人」という意味です。主への信仰を受け入れた人が、主の祝福を受け、その結果うらやましいくらい幸せになる。だから喜びなさい。その一連の流れで、主への信仰によって主の祝福を受けた人が、「幸いな人」です。そして、その結果しあわせになるであろう「幸いな人」でもあります。

 一方で、「時が迫っている」と黙示録は言っています。その「時」とは、キリストが再臨される時のことを意味していますが、その時が何時かは明らかではありません。それでも「ヨハネの黙示録」を読んで信じる人は、キリストの再臨に備えるようになるでしょう。主の祝福は、信仰があってこそのことですから、この黙示録に書かれている事を信じて、それを守ることを願っているのです。

 

 この黙示録は、七つの教会に送られました。聖書で七は完全性を表す数だからと考えて良いと思います。聖書は、七という数字にこだわります。そして、「ヨハネの黙示録」には、旧約、新約の中に出てくる「七」の数字の半分以上も出てきます。「ヨハネの黙示録」は、いかに「七」にこだわっているかが伺われますが、完全数=抜け落ちが無い ということを象徴しているのだと思われます。

 

 4節を見てください。ここの「七つの霊」とありますが、これは聖霊の全ての性質を指していると思われます。イザヤ書11章では、来るべきメシアについて語るときに、神様の七つの霊の性質があきらかにされています。読みますので聞いてください。

イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。』

ここから読み取ると、「七つの霊」は聖霊が持つ七つの性質を表現したものだと受け止めることができます。七つの霊の性質とは、知恵、識別、思慮、勇気、主を知る、主を畏れる、主を敬うこと。この七つの性質を持った聖霊が教会に働くということを示しているのです。もちろん七は完全数ですから、どの教会にももれなく聖霊が働いている、という受け止めも方も可能であります。

 

 その聖霊の働きに加えて、イエス・キリストからの恵みと平和があるように、とヨハネは書いています。ここで、「ヨハネの黙示録」はイエス様について証しをしています。イエス様は神様の証人であり、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者なのです。そして、わたしたちを愛した方、御自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方、わたしたちを王国の民とし、神に仕える祭司としてくださった方と続けます。これは、イエス様を客観的に表現したものです。神様のことを証しし、人々に誠実に接し、十字架での死の三日後に復活した方、そして、地上の王。イエス様はそういう方なのだと、証しをしているのです。

そしてヨハネは、イエス様が私たちのために何をしてくださったのかを確かめるように語ります。 イエス様はその血によって、私たちを罪と罰から解放してくださいました。すなわち、イエス様は全世界の罪のために御自身を犠牲として捧げたのです。この犠牲の力によって、イエス様を信じる者皆が神様に仕える祭司となりました。


 ところで、旧約の時代には、祭司だけが神様の御前に出ることができたのですが、中でも大祭司だけが、神様のお住まいになる「至聖所」に入って礼拝することができました。大祭司が独占していた特権だったのです。イエス様はその特権を取り払って、イエス様を信じる全ての者に「神様に仕えること」を許されました。ヨハネの黙示録は、このことを証ししているのです。

そして、この世の最も偉大な人々、地上の王をも支配なさっているイエス様にのみ栄光と力が永遠にある、と続けます。イエス様は、すべての者の王様でもあるのです。この証をまず受け止めましょう。イエス様は、天上でも、地上でも、地下でも王様なのです。そして、この世を創造されるときから存在していた、神様なのです。

 

 パウロは、フィリピの信徒への手紙で、イエス様のことを次のように表現しています。

フィリピ『2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』

 

このパウロの証は、そのまま「ヨハネの黙示録」に書かれているイエス様の証です。私たちも、パウロやヨハネと同じように、イエス様のことをこのように証ししてまいりましょう。神様は、イエス様の証しをする人を祝福するに違いありません。イエス様の証しをするものは幸いなのです。


アジア州の7教会(Bible Mapperの画像)