マタイ5:17-20

一点一画も

 1.言葉の意味

 律法:【広義】旧約聖書、ラビ(先生)の口伝による無数の掟

       【通常】旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)  トーラー(教え)とも呼ぶ

       【狭義】十戒(出エジプト記20:3-17、申命記5:7-21)

 預言者:【聖書】当時の旧約聖書は、律法(モーセ五書)、預言者、諸書からなります。預言者には、歴史書、大預言書、小預言書があります。

     歴史書 :ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記

     大預言:イザヤ書、エレミア書、哀歌、エゼキエル書

     小預言:ホセア書、ヨエル書、アモス書等 12書簡

律法学者:聖書の編集者(著者ではない。文献や口伝をまとめた。)

     AD90年まで、存在した職業。39の書簡を聖書と決めた後、無くなりました。
元の意味は、書記。当時読み書きができることは、特権階級であることを指します。文字を書くことは、すべてにおいて国事行為だったからです。

     後に、聖書の写本をする人や法律の学者を指すようになります。イエス様の生きた時代には、ファリサイ派の律法学者が、サンヒドリン(最高法院)に詰めていて、細かい律法の解釈を行っていました。まだ、このころ旧約聖書の編纂は終わっていなかったのです。

ファリサイ派:宗教的な地位を独占していたサドカイ派と源流は同じ。この源流では、敬虔派として頭角を現していたが、一部の人が特権を握ると、そこから外れた人々は、ファリサイ派と呼ばれるグループになった。イエス様のころは、サドカイ派が名誉職を抑えていたが、実権はファリサイ派が握っていました。ファリサイ派の人々は、「律法主義」と呼ばれるほど、厳格に律法を守ることを教えていました。

2.律法の完成

 「律法」をどの範囲で見るかでその意味するところが違います。イエス様は、十戒をベースに2つのことしか言いませんでした。「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分の様に愛しなさい」。その2つの戒めを守れば律法は完成すると言うのです。

イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の「律法主義」を批判し続けていたことから、律法や預言者を否定しているように思われていたのでしょう。しかし、イエス様は律法を廃止しようなどとは考えていませんでした。むしろ、律法を完成させに来たと言われるのです。イエス様は2つの戒めを教えました。それさえ守れば、律法の出来上がった元になる精神を守ることができるからです。一方で、律法は判断に使う一つの基準ですが、文面にはその精神は現れません。もっと冷めた考えによると、パピルスにインクで書かれたものにすぎません。都合よく解釈することも、人に厳しく適用することもできるのです。そこには、「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分の様に愛しなさい」とのイエス様の戒めが必要なのです。

3.一点一画も 

 律法や預言者は、そのまま保たれます。もともと神様が与えてくださった律法と預言者のことは、否定するどころか、「この世が続く限り消えない」と断言されるのです。イエス様が否定していたのは、律法学者やファリサイ派の人々の解釈で付け加えられた、広い意味の律法だからです。

4.掟を破る

「律法は、どんな小さなことでも守らなければならない。」イエス様の言われていることは、律法学者やファリサイ派の人々も同じように言いました。しかし、イエス様は「掟を破っている」と指摘することがしばしばありました。イエス様の言われたことは、「神様を愛する」「隣人を愛する」ことを目的として、律法を守る事です。一方で、律法学者とファリサイ派の人々が求めたことは、自らの律法の解釈を守らせる事でしたから、それは、「自分愛」でしかありません。どんな小さいことに対しても、「自分愛」では掟を破ったことになってしまうのです。

5.天の国に入る

 義(righteousness)が律法学者やファリサイ派の人々にまさるとは、まさに、「神を愛し」「隣人を愛する」ことにしか、その差はありません。そして、その差によって、天の国(誰も見たり、体験などをしてはいませんが)に入ることができるのです。