コロサイ4:2-6

祈りの輪の中で

 1.祈りなさい

 パウロは、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」と命じます。「ひたすら」とは、ギリシャ語の原語を見るとコンスタントに継続してとの意味です。そして、「目を覚まして」とわざわざ言っていることから、飽きてやめてしまったり、また寝てしまうほど長時間の祈りが想定されていることがわかります。なぜなら、コロサイの教会は危機に瀕していたからです。偽哲学思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々がいて、その中でコロサイの信徒は格闘していたのです。しかし、パウロは「感謝を込め」て祈るように言っています。キリスト教と異なる教えが入ってきたにもかかわらず、まず第一にイエス様への信仰が与えられたことを感謝する。そこから、祈りを始めるとよいとのパウロの命令です。長い時間祈らなければならないなら、その時間が長いだけ、睡眠や悪魔の誘惑があるわけです。最初に祈りを、神様への感謝とすることで、悪魔の誘惑が入りにくくなるのかもしれません。もちろん、異なる教えを持ってきた人への裁きを祈るのではなく、平和裏の解決を祈っていきたいものです。ですから、キリスト教会とは違ってきていることを憂いながらも、その中にあってキリスト者として生かされている事への感謝が必要なのです。

2.私のために祈ってください

 パウロは「同時に、私たちのためにも祈ってください」とお願いしました。手紙の始まりで、「1:3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。」とパウロは書いています。同じように、この手紙を読むであろうコロサイの信徒たちにも、パウロと同労者のために祈るように求めたのです。しかもその祈りのお願いは、投獄されているパウロが、「神がみことばのために門を開いてくださる」ことでした。

『神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。』


 パウロは、この手紙をローマで書いたとの定説です。(エフェソ、カイザリア説もあり)パウロは、ローマでは鎖はつけられていたものの、自宅で宣教することを許されていたようです。(使徒28:31-31等)コロサイに書かれている祈りのリクエストが、効を奏したのかもしれません。

また、牢につながれているのは、キリスト教への迫害で危険なローマにあっても、多くの人々が安全にパウロと会うために多大な成果をもたらしました。パウロは、その伝道のスタイルを希望して、そして宣教ができるために、祈ったという事だと思われます。また、「秘められた計画」ですが、良い知らせ(福音)の事です。普通に考えると、投獄された場合、外部の人との接触は原則禁止されます。それなのに、パウロは牢獄の中(実際はローマ市内に借りた自宅)で、鎖では繋がれているものの、誰とでも会えて福音を延べ伝えていたわけです。また、各地の教会に手紙を書いて送っていたわけですから、パウロの宣教活動は、まるでローマ政府から保護を受けているように見えたことでしょう。

3.しかるべく語る

『4:4 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。』

 自由に、勇気を持って、わかりやすく語って、福音を人々に伝えることが出来るようにと、パウロは祈りをリクエストしました。パウロ自身は、お話が上手ではないと自認していたようです。多くの人々に伝道するためには、福音をわかりやすく伝えなければなりません。自分のための祈りは、大事ですが、ほかの人のためにとりなしの祈りをすることも大事です。イエス様は、多くの人からの祈りに応えられるからです。パウロもコロサイの教会のために辛抱強く折ってきています。そして、その祈りによる恵みは、成果を上げるはずです。同じように、パウロは今パウロとその同労者が必要としていることをコロサイの信徒たちに伝え、祈りをあわせてもらうようお願いします。

4.この時を用いる

『4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。』

 パウロは、伝道の良い機会が来ていると考えています。多くの教会が迫害で苦しんだり、キリスト教でない教えが入ってきたりしています。その時こそが、教会が育っていく機会だという事です。ですから、教会の外に向かって伝道することに目を向け無ければなりません。福音を語り続けるためには、教会の内部もそして教会の周りの人々とも良好な関係が必要です。そういう意味で教会は、一致した目標を持つこと、そして個人個人の特徴を尊重すること、友好的な対話ができることを必要とします。

5.塩で味付けされたことば

『4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。』

 塩は、世界中にいろんな種類があります。世界標準では、ミネラル分の塩(えん)が混ざった塩(しお)が本来の塩です。その味は、しょっぱさだけではなく、複雑な苦みなどが感じられます。塩で、味付けされた言葉とは、その言葉を頂く者に受け入れられる範囲の味付け、そしてできればおいしい味をつけたいものです。ただ、言葉だけ巧みであるのは頂けません。言葉につけられる塩味、そして苦みは、話す相手への思いやりであり、愛があってこそ、良い味になるのです。そのためには、相手に関心を持つことも必要ですし、共通の話題をもつことも有効でしょう。

 単純に、自分の言いたいことをそのまま言葉にしたならば、その言葉には、心のとげがついていきます。また、相手をこちらの思い通りにしようとしたのならば、その言葉には個人への尊敬が感じられないでしょう。また、「よいしょ」をされた場合は、素直には喜べないはずです。話す相手は、一人一人違いますから、同じ言葉を使っても、別の意味になることも考えると、やはり私たちは、話す言葉を吟味して、どういう味になっているかを考慮したほうが良いです。コロサイの教会のように、混乱をきたしているときは、特にことばに、愛が必要なのだとのパウロのアドバイスです。