申命記7:6-11 

民を救われる神

2021年5月2日主日礼

「民を救われる神」

 聖書 申命記7:6-11

 今日の聖書の箇所は、旧約聖書から申命記です。申命記というのは、モーセ5書のなかにあって、その冒頭にデヴァリウム「言葉、命令」と書いてあることから、そのままこの書の名前になったものです。申命ということばは、中国由来の言葉で、繰り返し命令することを指します。

 この申命記では、エジプトで奴隷だったイスラエルの民を、なぜ神様は救い出されたかを、神様自らが説明しています。つまり、エジプトを脱出した時の指導者であったモーセが、神様から頂いた律法を読み解いて、民に教えたのが、この申命記という事です。そのため、神様の言葉をモーセが取り次いでいる構図になっています。神様はこの私たちを相手に、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と言われました。この呼びかけをされる神様ご自身が、「イスラエルの民を選んで、聖なる民とした」ことの証であります。

 また、イスラエルがなぜ神様の聖なる民、宝の民とされたのか、その理由が、7,8節に書かれています。これは、神様御自身によって、モーセに打ち明けられた、「選び」の理由です。

『7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。』

 イスラエルの民に心を引かれた理由は、どの民より貧弱だったから。そして、イスラエルを愛するゆえに、神様は御手をもってあなたたちを導き出した。つまり、イスラエルを選んだ理由は、イスラエルの民が持っている物や、民の優れた何かにあるのではなく、「一番貧弱な民だったから、愛された」と神様ご自身が言われます。イスラエルの民を選んだ理由は、ただ神様が「心を引かれた」ためであることが明らかにされているのです。そして、その愛は一方的です。ただ愛するがゆえに、イスラエルを選んだのであって、イスラエルの民に特別な魅力があったわけではないのです。

 これは、新約聖書での「イエス・キリストの選びと救い」につながります。神様は、一方的に私たちを愛してくださっている。そのことを神様は、モーセに語っていたのです。神様の選びの理由について、もう少し考えてみましょう。

神様は、「ほかのどの民よりも貧弱」なイスラエルの民を愛されたという事ですが、何をもって貧弱と言ったのでしょうか?また、その愛しはじめた時。その時とは何時からなのでしょうか?出エジプト記を見ると、神様が愛した民の族長が具体的に書かれています。

出『3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。』

 この記事から見ると、アブラハムの時からモーセに至る間、神様はイスラエルの民の神であり続けたことが分かります。神様は、アブラハムと契約をして、アブラハムの家族を増やすことを約束されました。創世記を読むと、まだ、アブラムという名前だったころの記事があります。この時をはじめとして、子孫と契約を続ける意思が書かれています。その一部を読みます。

創『17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。17:2 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」』

 この時神様は、アブラハムと契約しましたが、イスラエルと言う民族の名前は、まだ無かったようです。イスラエルと最初に呼ばれたのは、アブラハムの孫のヤコブです。

創『32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」』

 つまり、イスラエルの民は、ヤコブの時まで名前さえ付けられていなかったという事です。それだけでも この民の数が少なかったことが想像できます。神様自身も『あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。』と言われましたから、イスラエルの民は、他の民よりも少なかったことは裏付けされています。そして、数が少なければ、政治力、経済力や、軍事力の点で、他のどの民よりも貧弱だったという事が想像できます。また、文化面でも、ヘブライ文字ができたのは、紀元前20世紀ごろです。メソポタミアの楔形文字が紀元前34世紀、エジプトのヒエログリフが紀元前32世紀であるのと比べると、だいぶ遅い事がわかります。(日本の万葉仮名が紀元5世紀なのと比べて早くはあるのですが・・・)また、鉄を作って、道具や武器に加工できたのは 近隣のヒッタイトで紀元前14世紀ごろですが、紀元前10世紀ころと言われるサウル王の時代に、『イスラエルの王サウルとその子ヨナタン以外は剣も槍も持たなかった」(サム上13:22)』という聖書記事もありますので、かなりイスラエルの国は遅れています。このころには世界は鉄器時代に入って、武器が画期的に変わりました。それなのに、イスラエルでは、まだ鉄を鋼(はがね)に鍛えられなかったことがわかります。 先ほどのサウル王の時代の時代を考えると、技術的に400年以上も遅れていることになります。そればかりか、鉄の時代になっても鋼(はがね)の武器を買う事もできなかった。つまり、経済力も、政治力もなかったと言ってよいでしょう。国としては、だいぶ貧弱だったことがわかります。

 モーセの時代に戻りますと、そのころイスラエルの民は、寄留の地であるエジプトで、奴隷になっていました。日干し煉瓦を作るなど、エジプトの建設に携わっていたようです。神様が、アブラハム・イサク・ヤコブと約束したように、エジプトの地でイスラエルの民は増えて行きました。すると、エジプトのファラオはイスラエルの民が増えすぎたことを、国の危機として憂います。この心配から、エジプト人によるイスラエルの民への虐待が始まるのです。イスラエルの民にとって、この虐待は、民族存亡の危機でもありました。そのとき、神様はイスラエルの民を導いたのです。神様は、アブラハム・イサク・ヤコブの神として、イスラエルと契約した約束を、何百年(BC2000頃~BC1200頃の約800年)経っても忘れていませんでした。この時神様は、ご自身が契約した約束を果たすために、歴史を変えるような業を実現されたのです。この世界を支配しているのは、大国エジプトのファラオではなく、全地を支配する神様 ヤーウェであります。神様は、イスラエルの民を救うために、モーセを使ってイスラエルを導いたのです。

 神様の救いの働きは、イスラエルの民にとって希望でした。そして、今も希望であり続けます。イスラエルの民は、エジプトでの奴隷生活、バビロンへの捕囚、ローマによる神殿崩壊、十字軍による侵略、第二次大戦下のホロコースト等、最も不幸な出来事を経験しています。そして、どの時代にあっても「神様の救いの業」を待ち望んでいました。そして、『あなたをますます増やす』との神様と交わした契約を根拠に、イスラエルの民は救いの業を待ち続けているのです。

 そして、今やイスラエルの民だけではありません。神様は、多くの民に対しても、同じように「選びと救い」を与えられる契約をされているのです。神様は一方的に私たちを選びました。なぜなら、私たちを愛しているからです。この神様の愛によって選ばれた民に求められることは、この恵みの神様への信頼です。9節で、『あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを』、とあります。このまま素直に読みますと、「私たちは このことを 知らない」と言うことです。私たちがそれを「知らない」その原因は、実は神様にあるのです。神様は一方的に私たちの神様になられたからです。私たちが、神様を選んだわけではないので、知らされない限り選ばれたことに気づかないのです。それだけではありません。神様は、私たちの主君(Lord)でもあり、誠実な神でもあるのです。ですから、神様は信頼できるのです。そして、神様を信頼して生きることは、神様の御言葉に聞き、その教えを守って生きることです。

 申命記7:9の後半には、『この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる』と、あります。神様は、モーセを通して大変良い条件をお示しになって、私たちと契約なさったのです。

「神様を愛し、神様の戒めを守る者」がいたら、その子から孫へと、神様の慈しみは続くという契約です。なんと一方的なのでしょうか?999代続いて、神様を愛さない者がいても、その後一人だけ「神様を愛し、神様の戒めを守る者」がいたのならば、神様は契約を守り、そして慈しみを注がれると約束されているのです。そこから、また千代ということですから、give&takeの契約ではありません。無限の契約だと言ってもよいでしょう。私たちの社会では、このような無限の契約を結ぶことは許されません。偏った契約、片方にばかり利益があるような契約は、人間の世界では違法で無効なのです。しかし、神様と私たちの契約は、一方的に神様がご負担になるのです。しかも、それを決めたのは神様なのです。神様自らが、私たちを選び、救いの業を担われたのです。

 一方で、私たちが神様に約束することは、「神様を愛し、神様の戒めを守る」ことだけです。この約束は、律法(モーセ5書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を守ると言うことです。神様は、神様を愛する者が「神様に信頼して生きる」ためにモーセを通してこの律法にある掟と戒めをくださったのです。

 ところで、戒めを守らない者に下される審判の言葉が10節に記されています。

『御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。』

 救いの約束は、イスラエル全体に語られ、民と契約されましたが、その契約に違反することについては、「めいめいに報いて滅ぼされる」、と語られています。つまり、一代限りの裁きとされています。神様は、その裁きを受けることが無いよう、「神様を愛し、神様の戒めを守る者」となるよう、教えられています。申命記で与えられたこの掟と戒めは、新約聖書では、神様のみ子であるイエス・キリストによって、わかり易く再び語られるのです。神様は、私たちを救うために、御子イエス様までをこの世におくだしになりました。神様は、私たちのことを一方的に愛して導いてくださっているのです。

 最後に、11節です。『あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない』と教えます。イエス様は、2つだけ重要な掟をあげました。(マタイ22:34-40)注:戒めはあげませんでした。

 その第一の掟は、マタイ『22:37~心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』であり、第二の掟は、マタイ『22:39~隣人を自分のように愛しなさい。』なのです。これだけ?と思われるでしょう。しかし、モーセの時代に与えられた多くの掟と戒めは、この2つの掟につながっています。覚えきらないほどの掟と戒めを私たちは十分に守ることが出来ないばかりか、イエス様のたった2つの掟でさえ、守るのが難しいのです。ですから、神様はイスラエルの民を、また私たちを救うために、イエス様をこの世におくだしになりました。私たちには、イエス様の助けが必要なのです。イエス様に祈って、この2つの掟を守ってまいりましょう。