2025年 7月 27日 主日礼拝
『ふさわしくないのに』
聖書 ルカによる福音書 9:51-62
今週も引き続き、ルカによる福音書からお話しします。今日の聖書には、「サマリア人から歓迎されない」と「弟子の覚悟」という表題がつけられています。ここで面白いのが、2つの記事が一つはルカの主観をもとに書かれていて、もう一つは話した言葉そのものなので客観的だと言うことです。「弟子の覚悟」の記事では、会話の言葉だけで、新しい弟子が四の五の言っていることがよくわかります。このように、状況を簡潔に説明すること、事実を中心にすることで臨場感をだすことに福音記者は努めているのだと思いました。
次の箇所で、ルカは大事な情報を書いてます。
『9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。』
このとき、イエス様は、ご自身の十字架の死と復活の時が来ていることを受け止めて、エルサレムに向かっていたのです。ルカがこの時に弟子として同行していて、そのようにう見えたのでしょうか?。しかし、十字架と復活を体験し、復活したイエス様に出会っても、弟子たちは、十字架を理解していなかったのは事実です。ですから、弟子たちは後になってから、「この時にはイエス様は決意を固めていた」と 理解したのでしょう・・・
イエス様一行は、ガリラヤからエルサレムに上りました。サマリヤを通ってエルサレムに上り、そこで過ぎ越しの祭りを迎えようとしていたのです。あれっ?と思いませんか? ユダヤ人は、サマリア人を避けていたはずです。わざわざヨルダン川を渡ってまで、サマリアを通らなかった。それなのに、この記事では、わざわざサマリアに入るわけです。これには、わけがありそうです。一つの説では、ユダヤの指導者たちが、イエス様を敵対視していたので、イエス様は、多くのユダヤ人が行き交う街道を避けてサマリアを通る道を選んだと言うことです。また、サマリアを経由する理由については、もう一つの事実があります。ユダヤの歴史学者ヨセフスによると、彼の著作 古代史(Antiq., xx., vi. 1)の中で、ガリラヤ人がエルサレムの祭りに行く時は、サマリアを通過する習慣があったと書かれています。たぶん、サマリアへの宗教的なデモンストレーションだったと思われます。ですから、トラブルの種でもあったと思います。今日の記事でも、イエス様は宿を手配するために、使者としてヤコブとヨハネを、サマリア人の村に出すわけです。結果として、断られますが、使者が「雷の子」(マルコ3:17)と呼ばれる、気性の荒いヤコブとヨハネであったことも頭の片隅に置かなければなりません。
『9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。』
サマリアの村人たちは、祭の時期にガリラヤの一行がやってきたので、エルサレムの神殿ではなく、ゲリジム山で礼拝することを期待したのでしょう。ところがイエス様はエルサレムを目指していることを知ると、一行を歓迎しなかったのです。
もともと、ユダヤの人たちは、混血のユダヤ人であるサマリアの人たちを異教徒として避けていましたから、サマリアで歓迎されなかったのは確かでしょう。加えて、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムの神殿に行くことを知ったら、断るのも無理はないと思われます。だから、交渉に当たったヤコブとヨセフの性格から考えると、言い争いになったのではないかと思われます。
『9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。』
「雷の子ら」とも呼ばれるゼベダイの子ヤコブとヨハネが「彼らを焼き滅ぼしましょうか」と息巻きます。彼ら二人は、高ぶっていたのです。なぜなら、彼らは、「イエス様は、神の人モーセと預言者エリヤと語り合う関係だ。」ということを高い山で見たばかりでした。それで、気が大きくなっていました(9:30)。ですから、この世の誰もが、自分らの主(あるじ)であるイエス様に喜んで従うべきで、便宜を図るべきだと思っていたのでしょう。・・・それにしても、従わないなら滅ぼそうと言う発想は、かなり乱暴です。当然ではありますが、イエス様はそのような考えを戒めました。
サマリア人の村を過ぎ、イエス様ご一行は道を進んでいきます。すると、途中でイエス様に従いたいと言う3人に出会いました。イエス様が宣教を始めたころから弟子入りを願う人たちが多かったのです。イエス様は、「どこへでも従って参ります」との申し出に、このように答えました。
『9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」』
イエス様は私に従ってきても、寝る所もありません。それでも従ってきますか?と問いかけたわけです。そして、3人の決意のほどを聞いた上でイエス様は彼らに「神の国にふさわしくない」と宣言します。この言葉に、皆さんもたぶん同意することでしょう。しかし、です。・・・一体どのような人が神の国にふさわしいのか?を考えてみると、「自分は、神の国にふさわしい」とは、言えません。わたしたちも、神の国にはふさわしくないのです。
『9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。』
神の国にふさわしくない者のことを、イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」と呼びました。聖書では、ここだけに出てくる表現です。
日本語で鋤と申しますと柄が長くて先が平たいスコップのような農具を指しますが、ほかに犂(すき)という同じ読みをする動物に引かせる農具もあります。それらは、耕したり、畝を作るためのもので、英語ではプラウ (plow) と呼ばれます。福音書の中で鋤と訳されている言葉も、このプラウです。注解書によりますと、この記事では畝の溝を深くまっすぐに掘ることを想定しているようです。畝を作っている最中に、集中しないでよそ見をしていたのでは、まっすぐで深さがそろった溝はできません。人が鋤を使っていたとしても、動物に犂を引かせていたとしても、常に刃先を見ていなければ、浅すぎたり深すぎたり、大きく左右に曲がったりするわけです。いずれにしても畝を作る作業は、大変な重労働ですから、一発で仕上げたいところです。だから一度作業を始めたら、よそ見などせずに一段落つくまで、集中するわけです。そこに、イエス様に従おうとしたこの3人の問題がありました。宿がないだけで躊躇したり、従うと言いながら、あれこれ優先したいことを言い出すこの3人は、鋤での作業に集中する以前の問題です。たぶん弟子になったとしても、イエス様と一緒に鋤を握ることは 無いのかもしれません。
イエス様の弟子になるということは、イエス様に従って歩くだけのことではありません。イエス様に従って、「イエス様の困難な仕事を共にやり遂げる」。鋤に 手をかけるからには、良い実りを得るために、作業に集中することが必要です。つまり、ほかのことを顧みながら、作業をしてはいられないのです。同じように、イエス様の弟子になるからには、多くの信じる者を集めて教えることに集中する必要があります。だから、ほかのことを顧みて、鋤の刃先から目を離してはいけないのです。そして、イエス様に従うことは、一生をかける仕事となります。まさに「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、言うことです。
弟子になりたいと申し出た3人が「神の国にふさわしくない」と言われてしまいました。彼らの決心は中途半端だということです。この3人のことは、他人事ではありません。私たちのことなんだ と、自覚し、私たちを主語に置き換えて、この出来事を振り返ってみましょう。
私たちは、イエス様に「どこへでも従って参ります」と最初だけは立派なことを言いました。そして、それがかないそうになると、途端に条件をつけたのです。弟子となる前に、私たちは「父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。それは、間接的ですが、「弟子になるかどうか考えるための猶予期間」を求めています。つまり、決心がついていないのです。もし、決心がついていたなら、先に葬りや、いとまごいをしてくれば良いだけのことです。しかし、世渡りをする上で私たちは、複数の選択肢を持っていたいのです。そして、事の成り行きで、都合の良いほうを選ぶわけです。これは、一般に「勝ち馬に乗る」と言われる行動です。そういう、様子見のような事を私たちは選んでしまうのですね。決心がついたなら、すぐに始めて一途にやり遂げる。そういう不器用なことをするのは、「損だ」と私たちの意識の中にはあるのだと思います。
さてこの3人ですが、ナザレのイエスが王になった暁には、イエス様の弟子として生きるつもりでしょう。もし、ナザレのイエスがエルサレムで捕えられたならば「やっぱり怪しい人だった」と後ろ足で砂をかけるようなことを言うと思います。ある意味で上手な生き方です。・・・それにしてもイエス様を、天秤にかけることへの畏れはなかったのでしょうか?。そもそも、神の子であるイエス様を見極めようなどとは・・・大変な思い違いです。そして、おごり高ぶっていると思います。だから、イエス様は、彼らを「神の国にふさわしくない」と宣言しました。
ルカ自身が福音書の原稿を書いたのは、紀元58年ごろとされていますが、成立したのはもっと遅くです。ですから、教会ができて30年弱経った頃、ルカは教会の中の空気を見て、警鐘を鳴らしたのかもしれません。その当時は、キリスト教に対する迫害が激しかったので、日和見をする人々がいたからです。
そして、もう一つ忘れてはなりません。日和見をする私たちは、「神の国にふさわしくない」のです。・・・しかし、それでもイエス様は「神の国にふさわしくない私たちをも、神の国に招いています」。このことは、イエス様の恵みとしか言いようがありません。「ふさわしいから神の国に招かれる」のではないのです、イエス様の一方的な恵みによって、罪深く、そして「神の国にふさわしくない」私たちが、神の国に招かれている。これは、神様の一方的な愛、御子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖った神様の愛によるものです。この愛に、応えてまいりましょう。