2025年 8月 24日 主日礼拝
「生かされるための掟」
聖書 ルカ13:10-17
今日は、ルカによる福音書からみ言葉を取り次ぎます。
聖書には、安息日の記事が多くあります。しかも、天地創造と言う聖書の始めの物語から、安息日は聖別されています。
創世記『2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。』
一方で、福音書にも安息日の記事が、多くあります。旧約聖書では、「安息日を守りなさい」と教えているのですが、福音書では「厳格な律法の適用を求めるファリサイ派の人々」に、イエス様が一言いう場面が多いと言えます。ファリサイ派の人々は、安息日を守ることを大事にしすぎて、しゃくし定規な指導をしていたからです。それに対して、イエス様は「安息日は人々の休息や束縛からの解放のため」にあることを教えました。現代に生きる私たちの信仰生活には、安息日の縛りはありません。しかし、安息日の流れを汲んで、キリスト教では日曜日を礼拝を守る日としました。だから、私たちは「日曜日には礼拝を守りなさい」と教えられているわけです。日曜日に神様への礼拝を守るならば、そこで聖霊や、み言葉を受ける喜びもあります。日曜日は、そういう意味で、私たちが肉体的にそして精神的に、また霊的に休みを取る日なのです。目的がそこにあるわけですから、「安息日には何もしない」といった、休む方法や形に こだわる意味はありません。もし、「休む日だから何もするな」との指導を受けたなら、現代人は反発するでしょう。そもそも、そんな指導は鬱陶しいいだけで、心も体も休まりません。
今日のルカの記事にも、イエス様が安息日に病気の婦人を癒したこと、そのために会堂長と論争が起きたことが書かれています。当時のユダヤ人にとっては律法を守る、特に安息日を守ることは大事な戒めとなっていました。モーセの十戒では、それぞれの戒めは「・・・せよ」「・・・するな」と割と簡潔な命令ですが、安息日の戒めは細かい命令です。それだけ大事だったのです。
申命記『5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。』
元来、安息日はイスラエルの人々を農作業や建築作業などを維持するための休息日として設けられました。肉体労働のために体力を回復するためには、一定の休養が必要です。だから6日間働いて7日目には休みなさいという戒めが、神様からの祝福として与えられました。それが安息日なのです。
ところが、その安息日が権威づけられて、「聖なる日」「守らなければいけない日」となっていきます。先ほどの申命記にも『5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。~』とあったように、創世記の時代には「安息日には休む」であったのが、モーセのころには「安息日には、誰も仕事をしてはいけない」に変わりました。そして、「安息日を聖別しなさい」となっていきます。順番が逆になって、さらに強制になるわけですね。強制とは、色々起こりうる事情に配慮しないこと ですから、だんだん当事者の感覚が鈍って来ます。一度強制しだすと、その権威にほころびが出ないよう、頑迷に例外を認めないことになってしまいます。このように、掟はエスカレートしていって、こんなにも厳しくなってしまいました。
出『31:14 安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。31:15 六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。』
ここだけ読むと、耐えられない掟です。しかし、掟には前段があります。
出『31:13 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。』
神様は、安息日を守ることを命令する上で「わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るため」と明確に言っています。これは、目的です。安息日を守ると言う手段は、「主(ヤーウェ)が神様であることを知る」ためにあるわけです。ですから、その「ため」に、安息日を守り、その「ため」にならないなら、安息日は守らなくてよい。安息日の掟には、適用条件が付いているのです。しかし、ファリサイ派の人々は、神様の言葉を部分的に切り取って、無条件に「安息日を聖別しなさい」としてしまいます。そして、「主(ヤーウェ)こそ神様であることを知る」ためであることを忘れてしまうのです。その結果、掟だけが独り歩きしたのです。
さて、このように目的を忘れて、掟だけが独り歩きしだすと、さらに細かな戒めが作られます。同時に、やむを得ないこともあるので、戒めにあわせて、その除外規定を人が作るわけです。たとえば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することは、安息日には禁止されました。だから、これらの仕事は、金曜日の夕方までに終わらせます。そして、安息日はそのまま手を出さずに放置すれば、一晩中暖かい食べものが食べられるわけです。問題は、日が沈んで安息日になったとき、その食事を食べてよいのか?です。食べるのも労働ではないか? と問われるわけです。 実は、食事を装う事や、食べることは、ファリサイ派の人々は禁止していません。安息日は、栄養を十分に取って、休み、そして、神様を礼拝する日だからです。このように、労働を禁止するだけでは、不便すぎます。そんなことから、細かい規則ができた事情があります。しかし、人々の営みですから、規則の中に想定されたことばかりが起るわけではありません。当然ながら、想定していないことが起った時は、困ったはずです。そういうときも、人の作った掟を厳格に守らせるならば、安息日が安息の時ではなく、「束縛」の時になるのです。
さて、今日の記事の始めです。
『13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。』
イエス様は、その婦人を憐れに思い、癒してくださいました。一部始終を見ていた会堂長はすぐに、群衆に向けて言います。それは、イエス様に対する抗議でした。
『13:14~働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』
会堂長の言い分はもっともらしいと思います。確かに婦人は18年間も病気だったので、今日ではなく明日癒されても、大差がないと思われます。つまり、掟に違反までして癒す必要が無いとの考えです。しかし、イエス様はこの会堂長に言います『13:15 ~「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。13:16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」』
これは、イエス様の反論です。安息日であっても、牛やろばのために水を飲ませて世話を焼くはず。・・・それと同じだろう?と言う事です。家畜の世話よりも、人の癒しの方が大事だからです。
ところで、イエス様は、何度も安息日に癒しの業を行いました。その度に、ファリサイ派の人々と論争になります。何故、わざわざ安息日に癒しを行うのか?、明日でもかまわないではないか?。と 必ず同じ論点に行きつきます。それなのに、イエス様はあえて、安息日であっても癒したのだと思われます。どうしてかと言うと、みなさんの聖書にはありませんが「見よ」(イドウ:ἰδοὺ)と言う言葉があるからです。
「見よ、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。」このト書きをルカは書いています。つまり、たまたまいた人が18年もの間病の霊に取りつかれていたという話ではなく、安息日の礼拝に来るこの闘病をしている婦人を目指して、イエス様は会堂に来たのです。また、安息日には、彼女に限らず「神様に癒しを願って」多くの病の人が会堂に集まっていました これも事実だと思われます。ならば、その機会に、そして今まさに神様に癒されたいと祈っている彼女を、イエス様は癒した・・・ 私はそう信じます。イエス様が安息日に多くの癒しの業をなさるのは、「毎日癒していたから」でもなく「あえて、安息日を選んだから」でもありません。そこには、癒しを求めている者の祈りがあった。だから、安息日の癒しを批判する人がいることはわかっていながら、「イエス様は、ためらうことなく癒した」と私は思うのです。
ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まででしたが、キリスト教会はイエス様の復活を覚えて、安息日を日曜日にしました。私たちは日曜日を安息の日として、教会で礼拝を守ります。しかし、忙しい時も家族が病気の時もあります。クリスチャンがいつも悩まされる問題です。しかし、「主こそ神様であることを知る」ために安息日はありますし、イエス様の教えによれば、マルコ『2:27 ~「安息日は、人のために定められた。~』のです。ですから、祈りの中で、神様と相談をしていれば、それで十分だと言えるでしょう。
私たちは神様の前に平安を得るために、教会に集まります。仮に、他の御用を神様からいただいたのならば、その御用をするなかでその場にあって平安が与えられるでしょう。さらに、誰のための安息日なのか?何が安息なのか?を改めて考えみてください。会堂にいた婦人は、安息日に18年の病いから解放されました。同じように、私たちも日常の束縛から解放される必要があります。様々なことで束縛される私たちですが、それが神様の用事であるのか?または人の肉の思いからの束縛なのか? 祈って答えを求める必要があります。その祈りによって、安息日が「神様が私たちに自由と平安を与えるための日」として用いられるていくのです。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」ではなく、「神様を賛美する日」と認識するならば、私たちは、日曜日の束縛から解放されます。そしてかつ、神様の平安をも頂けるのです。その平安に与れるよう、イエス様に祈ってまいりましょう。