2025年 9月 28日 主日礼拝
「赦してあげなさい」
聖書 ルカ17:1-10
『17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。』
聖書は、時々「つまずき」という言葉を使います。ギリシャ語でスカンダロン(σκάνδαλον)で、意味は、つまずき、攻撃、罠です。この言葉は、今で言う、スキャンダルの語源だと思われます。直接的には、餌を付けた棒を使った罠を指す言葉です。つまり、意図的に仕掛けられた罠なわけです。一方で、比喩的な意味では、つまずきとは、人々を罪、不信仰、または霊的破滅を目指したあらゆる「妨害」を示します。今日の聖書は、このつまずきを、イエス様の弟子たちが受けるであろう「迫害」と言う意味で使っています。そして「それをもたらす者は不幸である。」と、イエス様は言いました。その罠を仕掛けたところで、何の得もないばかりか、神様のご計画を妨害するという意味で、罪であり、そして人をつまずかせる人はその罪を背負って生きなければならないからです。
イエス様は、つまずきについて語りました。つまずきとは、自分が罪を犯すこと、そして自分の信仰の歩みが止まることです。これに加えて、他人が罪を犯すようにきっかけをつくったり、人の信仰の歩みを妨げたりすることがつまずきの「罠」です。もちろん「罠」を避ければ良いのですが、全ての罠を避けることはできません。しかし、意図して人を罠にかける事は、あってはなりません。
イエス様は言いました。人をつまずかせるようなことをしたら、それは不幸だと。意図しなかったとしても、人に罪を犯させるきっかけを作ってはいけないのです。ところで、ここで不幸と言う言葉が出てきますが、ギリシャ語の聖書には、不幸とは記載されていません。悲しい時の呻きを示す感嘆詞(オーアイ:οὐαί)が使われています。そこに表現されているのは、自らの罪を告白し、悔い改める呻きの声なのです。
『17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』
ここで、小さな者とは、イエス様の弟子たちです。イエス様は、弟子たちが悪霊を追い出せたことを喜んでいるのを見て、こう祈ったことがありました。
ルカ『10:21 ~「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』
このように、神様の御業に素直に喜ぶ弟子たちを、幼子のような者だとイエス様は言ったのです。小さい者は、その素直さがゆえに、つけこまれてしまいます。つけ込む輩は、神様の意思に逆らって、小さな者を罠にかけてしまうのです。すべてを信頼して、おいしいものが食べられると大きく口を開けて食べ物を待つ小さな者に、乳や蜜ではなくて、毒を注ぐわけです。これらつけ込む者たちに対して、イエス様は、『首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし』と言いました。もちろん、石臼と一緒に海に投げ込まれたなら、絶対に浮かび上がりません。ですから、誰にも知られずに海に沈められ、そして墓も建たずに、葬式もないわけです。ですから、その人の存在そのものを消してしまうことと同じだ と言えます。イエス様は、「そんな死に方をしたほうが、小さな者をつまづかせる人生を続けるよりは、ましだ」と言っているわけです。意図して「罠」にかけたのであれば、そんな批判を受けても仕方がないと思います。しかし、ここでやっかいなのは、「つまずかせる者」自身は、気が付いていない場合です。そんな時でも、「つまずいた者」には、大きな悲しみがやって来るのです。
『17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。』
これは、つまずかされた後のことです。私たちは、教会用語としてよく、「つまずいた。」という言葉を使います。みなさん思い出してください。どんなつまづきがありましたか? たぶん、よく覚えていると思います。そして、つまずいたことはよく覚えているのに、つまずかせたことは覚えていません。もっとも、気が付いてもいないでしょう。傷ついたことは覚えていても、人を傷つけたことは忘れますし、そもそも自分が悪いなどと思ってもいないかもしれません。そんなこともあって、イエス様は、つまづかないように注意をしたのではなく、つまずかせないように注意したのだと思います。
実際に、つまずく時があります。だれかに、ひどいことをされて、神様と向き合いたくない時もあるのです。もちろん、そのひどい人のことを怒ったり、憎んだりしますし、また誰かに訴えもするでしょう。けれども、そのような時でも、イエス様は、「赦しなさい。」と言うのです。もちろん、「赦す」前には、事実として何があったのかを知ってもらい、反省を促し、相手に悔い改めてもらうと言ったプロセスが必要です。なぜなら、赦すとは、相手の反省を受け入れることで、過去の被害を消し去ることだからです。だからイエス様は、まず、「戒めなさい」と言いました。「赦す」ためにはそれが必要なのです。戒め方について、イエス様はこのように教えました。
マタイ『18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。』
他人に話すのではなく、本人に話しなさいということです。そして、「ごめんなさい。もう、そういうことはしません」と相手が反省するのであれば、それ以上は求めない・・・。これが、イエス様の教える赦しです。
『17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」』
当時、「三度赦してあげれば、あなたは完璧です。」と言った教えがあったようです。それをイエス様は、七度までと言います。しかも、全部で七度ではなく、一日に七度です。何回も罪を犯しながら、「もう、やりません。」と言う人がいたとします。その人は、悔い改めていない そんな風に私たちは見てしまいます。けれども、イエス様はこう教えるのです。「悔い改めます と言うのであれば、赦しなさい」。つまり、悔い改めているならば、またやらかすかもしれないと思っても、赦すようにとの命令です。なぜならば、イエス様は「何度も罪を犯す私たち」 を赦している。私たちは、その恵みに与っているからです。イエス様の恵みに与った私たちは、イエス様のように赦すことが求められているのです。
弟子たちは、一日に七度も赦すなんて、到底できないと思ったのでしょう。それで、「信仰を増してください」(17:5)、と言います。これは、もっともなお願いのように聞こえます。けれども、的が外れています。そこでイエス様はこのように言いました。
『17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。』
からし種は、ものすごく小さい種で、肉眼では粉のように見えます。それだけの小さな信仰があれば十分だ、とイエス様は言ったわけです。それはつまり、弟子たちへの「からし種のような小さな信仰さえない」との指摘です。
ところで、弟子たちは、1日に7度も赦す事はできない。だから、赦すことができるように、信仰を増してください と言いました。・・・どこか引っ掛かりませんか?。私には、こんな風に聞こえるのです。「私に人を赦すようになってほしいと お望みでしたら、私にその信仰をください」・・・もし、このような祈りであるならば、的外れです。また、「私も人を赦したいので、私にその信仰をください」・・・このような祈りだとしても、まだ引っ掛かります。弟子たちのこの反応は、イエス様にすべてを「委ねよう、従おう」とするのではなく、「条件付き取引」や「おねだり」に見えるからです。イエス様を信じると言うことは、「イエス様に委ねる」ことです。ですから、私たちは、「できるか、できないか」と自分で判断してはいけません。もし、自分の判断で断ったり、取引したりでは、「イエス様に委ねる」ことではなくなります。もちろん、正直に「出来ないことは出来ない」と言うことには問題がありません。しかし、イエス様が求めているのは、自分に出来そうがなくても「イエス様に従う」ことなのです。そのあとのことは、心配しないでください。イエス様が担ってくださる・・・そう信じましょう。
『17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。』
この僕は、畑を耕して、羊を飼うのが仕事です。また、主人の食事を整えるのも仕事ですから、主人は特段の理由もなく僕を食事でもてなそうとはしません。そもそも、僕が言いつけられたとおりに仕事をするのは、当たり前のことです。だから、主人はその当たり前のことに感謝するわけはないのです。仕事に対する報酬は、契約通り支払われるからです。主人が感謝するのは、契約以上のことをした時だと言えます。 このことは、イエス様と私たちの関係にも当てはまります。
『17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」』
もし、仮に弟子たちがイエス様の教えを聞き入れて、一日に七度赦したと、想定しましょう。弟子たちは「私は、こんなに赦しました。お褒めの言葉をください」という気持ちが必ず出てきます。なぜなら、今まで出来なかったことが出来たからです。しかし、それを命令したのはイエス様です。また、弟子たちに寄り添って導いたのもイエス様です。イエス様の働きですから、その報酬は当然、イエス様ご自身のものです。イエス様を信じて委ねる者は、そのことを良く知っています。ただ、信じて、その命令に従ったからです。そして、イエス様に委ねた結果、出来ない事も出来てしまった。それだけです。
この私たちも、イエス様を信じて従う信仰を持てば 出来ないことが出来る。そう信じてイエス様に委ねましょう。そうすれば、最善がもたらされるのです。このことを信じて、イエス様の下さる恵みに感謝しましょう。