1.ヘロデのパン種
弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れていました。だから、舟の中には、パンがただ一つしかなかったのです。そのとき、イエス様は彼らに命じました。「ファリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
イエス様は、パン種というたとえをもって、気をつけるように言います。パン種をパン生地の中に入れると、それが全体に広がってパンをふくらませます。ユダヤ人は、そのパン種を罪の象徴としました。知らないうちに広がるからです。ユダヤ人は過越の祭りで、パン種を入れないパンを食べました。罪からのがれるという意味合いだと言えます。そして、パウロは、コリントの教会に入っている悪をパン種にたとえます。弟子たちにとって、ファリサイ派の人々とヘロデの不信仰がパン種(悩みの種)でした。
イエス様は群衆にも、この奇蹟と教えを与えられたのですが、弟子たちはされに特別です。 それなのに、弟子たちは、パンを持っていないということで、議論をし始めました。 彼らは、イエスの言うたとえがわからずに、パンを持っていないことだと自分勝手に決めつけてしまいました。 それに気づいてイエス様は言いました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」
イエス様は、弟子たちを叱ります。それは、彼らがパンがないことで議論していたからです。
2.しるし
『8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。』
弟子たちは、パンを食べた人の人数、もともとあったパンの数、そして残ったパンのかごの数をみな知っていました。そんなにきちんと覚えているのに、その数を比較することはありませんでした。5つのパンが、5千人に渡っただけでなく、12のかごに入るパンになった。7つのパンが、4千人に渡っただけでなく、7つのかごにはいるほどの残りが出ました。あきらかに、今回は、残ったパンが少ないのです。
『8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。』
イエス様は、盲人を村の外に連れていきます。そこに弟子たちもついて行ったと 思われます。 そしてイエス様は、その両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞きました。
『8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」』
イエス様は、耳の聞こえない者と同じように、この盲人が信仰を持つことを願って、語りかけました。 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言います。その人には、ぼんやりと見えました。そこに見えたのは、立ち会っている弟子たちだったかもしれません。
『8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。』
イエス様は、2回目に両手を当てました。すると、はっきり見えました。イエス様は、弟子たちが一回目の景色しか期待していなかったことを知っていました。そのことを、指摘したかったのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちには、まだぼんやりとしか見えていない。だから、はっきりと見えることが必要だ、と言いたかったのではないでしょうか?。
『8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。』
イエス様は意図的に、群衆からこの奇蹟を見せないように配慮しています。イエス様は弟子たちを、ファリサイ派の人々から離しました。それは、弟子たちと今から、とても大切な話をするためです。