エフェソという町は、繁栄していましたが、エフェソの教会は必ずしも豊かな生活をしているわけではありません。むしろ、困難であったことでしょう。エフェソのアルテミス神殿には、あらゆる偶像礼拝がありました。その上に、皇帝礼拝もありました。皇帝礼拝は形式的なものですが、拒むことが困難です。パウロは、彼らがキリストにあっていかに豊かにされているかを語り始め、そして今日の箇所「パウロの祈り」に入ります。
1.エフェソの人々への感謝
パウロは、エフェソの人々が「主イエスを信じ」「聖なる者たちを愛している」ことを聞いていました。ローマで牢獄につながれているパウロにも伝わっていることは、エフェソの人々にとって励ましとなったでしょう。
そして、パウロが「すべての聖徒」と書いているように、分け隔てがないことまで伝わっています。神様を信じた者であれば、すべて、神様によって生まれた子どもであり、また同じ、キリストの体に属しています。そこには、キリストにあって一つなのだという確信があります。
2.神の栄光
『1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、』
栄光というのは、光の明るさや、威厳、神聖さを表す言葉です。神様がいるから、光も万物もすべてが成り立っています。それが、神様が栄光の源とか父と呼ばれている所以です。そしてパウロの祈りは、「神を深く知る」ためといっています。私たちの最も大きな罪は、「知恵に満ちた、愛してやまない父」としての神様を知らないことです。そして、神様を知るためには、「知恵と啓示の霊」が必要であることを教えています。聖霊は、私たちの罪が贖われて、神様のものとされるまでの保証になっているからです。
私たちは、自分の生まれつきの知性や感情では、神様を知ることができません。聖霊によって、初めて父なる神様を知ります。また聖霊が、「知恵と啓示の霊」と呼ばれています。「知恵」は、すでに知識として知っていことを活用するときに必要なものです。私たちは神様を知識として知っていたとしても、生活のあらゆることに、その知識がどのように生かされるかは知恵を必要としているのです。そして、「啓示」でありますが、これは神様が示されることです。示されているからこそ、私たちはそれを受け入れるのです。
『1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。』
知恵と啓示の聖霊によって、まず、「心の目がはっきり見えるよう」になります。見えていないことは、信仰によって心の目で見ます。 見たいことは三つです。一つ目は、「神様の招きにより与えられる希望」であります。そして、二つ目は、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」というものです。そして、三つ目は、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」を知ることです。
3.かしらとされたキリスト
『1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。』
ここでパウロは、キリストがどのような力と権威、地位を持っているのかを説明します。この手紙を受け取って読んでいるのが、エフェソの町に住んでいる信者であります。エフェソの町は、ローマ帝国でも有数の町です。そこには、皇帝礼拝が行われていました。その他の、ギリシアやローマの神々の神殿もありました。そうした中で、彼らには、ローマ皇帝よりもはるかに高い位におられる方(=キリスト)の下にいることを知らせる必要があります。そのように、外圧を受けているエフェソの教会を励ましているのです。
イエス様は、父なる神の右の座に着くという、天にある一切の権威が与えられた方です。ですから、イエス様の名によって祈れば、主権者である神様は何でも祈りを聞いてくださいます。
『1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。』
教会には、どのような目的があるのでしょうか? キリストが、教会にとって「すべてのものの上に立つかしら」なのです。すべてのもの、とは、教会内のことだけでは、ありません。天地にあるもの、今だけでなく、後の世にもあるもの、すべてであります。その上にキリストが立っていて、教会のかしらとなっているのです。このようなキリストから召し出されて、私たちは集まっています。ですから、教会の一部となってキリストに従っていることが、教会のこの世に対する証しなのです。この世に対する光なのです
パウロは、さらに、教会は「キリストの体」だと言っています。キリスト(救い主)がいて、教会のかしらでありますが、その体でもあるのです。そこまで、イエス様は私たちと一つになって、結びついています。ですから、教会から離れてキリストを知ることは、不可能です。そして、教会から離れて一人になってはいけません。たとえ、教会という場所に実際に行けないときであっても、キリストにつながっているならば、教会の一部になっているのです。教会はキリストによって、すべてが成り立っているということです。だから、どんなことがあっても、イエス様とともにいることが解決をもたらすのです。人々がイエス様とともにいる場所が教会です。どこであっても、その場所には、キリストがおられます。そのキリストを伝えているのです。