1.イエス様が引用した聖書
申命記『6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
レビ記『19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』
2.最も重要な掟
今日の箇所は、イエス様が十字架に架けられる数日前の出来事です。ファリサイ派の人々や律法学者たちによって、当時は政治と宗教を運営していました。ローマの支配下とはいえ、自治権はあったわけです。その宗教指導者たちは、イエス様が群衆に人気があることを妬み、揚げ足をとってイエスを捕えようとしていました。どうやって捕らえようとしたかは、エルサレム入城以来の記事にあります。彼らは、次々と人を入れ替えながら、イエス様に答えられないような質問をしてきたわけです。そのことを知ったうえで、この律法学者は、イエス様の答えに驚き、彼自身がイエス様に教わりたいと思っていました。
『12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」』
イエス様は、即答しました。
『12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』
旧約聖書の律法で、第一の掟は申命記6:4-5、第二の掟はレビ記19:18 だとイエス様は断言しています。その理由は、イエス様自身が語っています。(参考:マタイ22:34-40、マルコ12:28-34、ルカ10:25-27)
マタイ『22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』
3.神様を愛すること
神様を愛することは、自分が救われるためではありません。そもそも、自分の幸福のために律法を守ることは、神様を愛することではないのです。神様がまず一方的に私たちを愛して下さった。私たちが神様を愛することのすべては、その神様の一方的な愛への応答なのです。私たちを愛し、私たちの罪のために御子を遣わし、救いの道を備え、救いに与らせて下さった神様の愛に応答し、神様を愛するのです。
Ⅰヨハネ『4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。』
イエス様が律法の中で一番大切なことを答えると、この律法学者は、それを反復し、さらには、このように言います。
『12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」』
この律法学者は、神様を愛することが、いけにえを献げるという儀式的な行為よりも優れていると述べました。イエス様は、それを適切な答えだと評価し、『あなたは、神の国から遠くない』と言います。ここで、この記事は終わります。イエス様にさらに聞くことをしなかったわけです。つまり、この律法学者は、「神の国から遠くない」しかし、「神の国に入れる」「すでに神の国に入っている」わけではないのです。
さて、この律法学者のどこがいけないのでしょうか? イエス様はこの律法学者の聖書理解を 適切だと評価しています。しかし、学問の上での評価でありました。一方で、信仰的には?と言うと、彼ら律法学者たちは、イエス様を受け入れることをせずに、敵対しました。そして、エルサレム入城以来、イエス様を貶めようとの策略を何度も図っていたのです。この律法学者は、学問的に聖書を学び、それなりの地位があり、尊敬を集めたと思います。また、神様を愛するという意味でも、形式にとらわれるのではなく、実質的に神様を愛する行いを目指していたのでしょう。そういう意味で完璧な人です。しかし、イエス様は、「神の国に遠くない」との評価を公にします。彼には、決定的な欠点があったからです、神様が遣わしたイエス様を神の子として受け入れ、信じることがなかったからです。それでも、彼は神の国に入れる可能性は高いのです。なにしろ、イエス様が言いました「神の国から遠くない」この言葉は、どれほど、イエス様の嘆きが込められていたことでしょう。十字架に向かう数日前にです。罪とは、神を愛し、隣人を愛するとの律法に反する歩みです。神様は、そういう私たちを一方的に愛し、イエス様を人としてこの地に送られ、私たちの罪を赦してくださるのです。それだけではありません、神様を愛し、隣人を愛する歩みへと回復する機会を与えて下さるのです。