マタイ13:10-17

たとえの秘密

2024年 211日 主日礼拝  

たとえの秘密

聖書 マタイ13:10-17

 今日の聖書は、イエス様のたとえ話についてです。ちょうど今日の箇所の前に、種を蒔かれた土地によって、枯れたり豊かに実ったりするたとえ話があります。弟子たちは、イエス様のたとえ話が相手に伝わっているか疑問を持ったのでしょう。ですからこのように聞きました。

『「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」』

この質問に対して、イエス様はイザヤ書で答えます。

14-15節のイザヤの預言は、イザヤ書6:9-10からの引用です。

イザヤ『6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」』

不思議な言葉ですね。この民をかたくなにし、耳で聞いて理解することのないように、そして悔い改めて癒されないようにしなさい。これは、神様によるイザヤへの命令です。

また、その責任は民にあるとの宣言でもあります。

 このイザヤの言葉のように、イエス様は「悔い改めない人々のことを、かたくなに」させました。また、弟子たちに対しては、『天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない』と、イエス様は意図して区別しています。また、悔い改めない人々は、「天の国の秘密を悟ることが許されていないから、たとえで話す」とも、説明しました。

 さて、イエス様が、なぜたとえで話すのか?それは、多分、「分かりやすくするため」だと皆さんも理解していたと思います。 ところが、頑なにするためでもあったのですね。また、弟子たちに教える時も、たとえを使ったはずです。しかし、マタイでは「たとえで話すことは、弟子たちには必要ではない」と言っているように読めます。その点について、最も古い福音書であるマルコでは、このように書かれています。

マルコ『4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』


 この記事によると、弟子たちはイエス様のたとえを「必ずしも理解できていなかった」ことが伺えます。気を付けたいのは、マルコの描く弟子たちと比べて、マタイの描く弟子たちは優秀なことです。マルコは、弟子たちが悟っていないことを何度も何度もありのまま描きました。ところが、マタイはその部分に修正を加えているのです。あたかも、そのとき悟ったように書くことで、弟子たちの権威を高めようとしたのかもしれません。

 マルコの記事から見ると、弟子たちがたとえを悟る時には、まだ至っていないのです。そして、その時が来たら「秘密が解ける」ようにイエス様は「たとえ」を使ったのだと思われます。イエス様が言いました。信仰のある者は「たとえ」を理解する事によってさらに信仰が得られます。逆に、信仰のないものはその持っているものまで取りあげられます。イエス様は、人々の信仰のために「理解できない者には、理解しやすく たとえ」 で話しました。そして、「かたくなな者には、ますます理解ができないように たとえ」 で話したのです。このように、求める者には理解を助け、拒否する者にはさらにかたくなにさせるために、イエス様はたとえを使ったわけです。イエス様が「求める者にたとえで語る」のは、救い主としてふさわしい教え方です。しかも、それは天の国の「秘密」であるので、求めようとする者には宝となります。逆に、求めようとしない者には、意味の分からない言葉でしかありません。

11節に『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。』と さきほども簡単に触れました。

ここの「あなたがた」とは、イエス様の弟子たちのことです。そして弟子たちは「天の国の秘密」を知ることが許されていますが、「あの人たち」には許されていません。「あの人たち」とはイエス様を求めようとしない人たちという意味です。また、「許されている」と訳されていますが、原語では「与えられている」という意味の言葉(ディドーミ:δίδωμι)が使われています。つまり、イエス様の言っているのは、弟子たちには「天の国」の知識とそこに入る祝福が与えられていることです。逆に、イエス様を求めない人々にはそれが与えられていないことです。

「秘密」(ミュステーリオン:μυστήριον)という言葉は、マタイの福音書ではここ一回限り使われている言葉で、とても重要です。ここで使われている「秘密」とは昔から、多くの世代にわたって隠されてきたことです。そして明かされる時が来るのが「秘密」です。もし、明かされることが無ければ、それは「秘密」ではなくて、「消失」なのであります。つまり、明かされることが前提なのが「秘密」なのです。ですからこの「秘密」は、神様の定めた時に、限られた人だけに明らかにされることを意味します。多くの書簡を残したパウロは、その一人なのでしょう。神様から多くの「秘密」の啓示を受けました。ですから、このことばを最も多く使っているのはパウロで、21回も使っています。

ちなみに、この「秘密」と言うことばは、新共同訳では「秘められた計画」「秘められた真理」「神秘」とまちまちに訳されていますが、原語はひとつであります。 さて、ここで言う「秘密」とは、何を指すのでしょう。「秘密」を一言で言い表すなら、それは「キリストにある栄光(=救い主による王国の支配・統治のすばらしさ)」のことであります。

『13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』

ここで「持っている人」と「持っていない人」との対比がなされています。「持っている人」とは、「天の国の知識と祝福を与えられている者」のことであり、その人がさらに得ようとするなら、それが豊かに与えられます。しかし反対に「持っていない人」とは、文字通り「天の国の知識と祝福を持っていない人」のことであり、その人は「ヤコブ以来イスラエルの民としてすでに与えられている救いの特権までも、奪い取られる」ということを意味しています(マタイ25:29も参照)。

『13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』

 イエス様は、ここでようやく弟子たちの質問に答えます。

イエス様が「たとえ」で話す理由は、「彼らは見ているが見ず、聞いてはいるが聞かず、理解できないから」ということです。イエス様は、病人を癒し、多くの奇跡を起こしながら、教えました。そのことばや奇跡を受け入れない彼らは、イエス様の語ることばを聞きながらも、それを理解しようとも、悟ろうともしないのです。したがって、彼らは悔い改めない限り救いに与ることがありません。たとえでイエス様が教えるわけは、それで少し見えてきました。「イエス様を信じようとするものが理解でき、そして、イエス様を拒否する者は理解できない」。だから、イエス様は、たとえで教えたのです。そう言う意味で、たとえで教えた結果として、イエス様を信じる人は、自らその「信じているしるし」をつけるのであります。逆に、信じない人は、自らその「罪のしるし」をつけてしまうのです。


『3:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』』


「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。」のは、心が鈍くなっているためで、自ら神様に向き合おうとしないからだと言えます。これはすでにイザヤが預言していたことです。そしてイエス様がたとえで語ることによって、その「秘密」が明かされたのです。


『13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」』


 今日の聖書の箇所の中で「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」が、重要な意味を持ちます。なぜなら、「多くの預言者や正しい人たちは、私たちが見ているものを見たかったが、見ることができず、私たちが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」からです。それだから、いま私たちは それを見て、聞くことができる。それは、幸いなのです。・・・「多くの預言者や正しい人たちが願った」ことは、まさに「天の国が来る」ことであり、それが救い主であるイエス様によって実現しようとしている。この幸を頂いているのです。

 そしてイエス様は再度、さっきまで群衆に教えていたたとえを弟子たちに教えます。弟子たちは「天の国のことばを聞いて理解する者」として選ばれているのです。そして同時に、その選ばれた者たちは、ゆたかな実を結ぶ者たちでもあります。ですから「幸い」なのです。イエス様は続けて教えます。これは、今日の聖書の続きですが、種を蒔く人のたとえの解き明かしです。

『13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」』

 イエス様の弟子たちは御言葉を受け入れる良い土地に落ちたので、心の中に蒔かれた御言葉が育ちます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」とイエス様は教えました。そして、御言葉を聞いて悟る人には、天の国が約束されているのです。私たちも、御言葉のめぐみにあずかっています。そして、ますます、御言葉を頂いてそしてその「秘密」を悟って、多くの幸いを頂いて参りましょう。