コリントの信徒への手紙一14:26-40

礼拝に対する指示

聖書研究


1.礼拝に対する指示

 「異言で話すこととそれを解釈すること」の意味は明瞭です。礼拝では、複数の異言の話し手が人前に出ることがあります。ただし、同時に二人が話してはいけませんし、解釈する人がいないのならば、異言で話す意味がなくなってしまいます。

『14:28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。14:30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。』

 ・解釈する人がいなければ、異言を語る賜物を持っている人は、黙っていなさい。

 ・預言は二人から三人に制限して、他の人はその預言を聞く方にまわりなさい。

 ・預言の途中で、他の人に啓示が与えられたなら、先に語っていた方が黙りなさい。

 ・一人一人が預言できるようになりなさい。

 さぞ、コリントの教会の礼拝は、混乱していたことでしょう。解釈する者がいないのに、異言を語り、多くの預言を語る者が、同時に語ります。誰も内容を聞き取れないので、共に励まされることなく、また、預言をしない者は完全にお客さんとなっているので、励まし合いとはなっていないのです。

 パウロによれば、「預言」は教会の礼拝の中で行ってもよいことのひとつであり、パウロ自身この働きを高く評価しています。ただし、きちんと秩序を保たなければなりません。預言で大切なのは「吟味すること」です。使徒的な信仰に沿って話しているか、そうではないか、が評価基準です。

2.聞く事

 パウロは再び、コリントの教会の女性たちの礼拝での振る舞いに関して、厳しい指示をします。11章で彼は女たちに、「頭を被り物で覆う」という条件を付けた上で、「預言と公の祈りの奉仕」を許可しました。おそらくコリントの教会の女たちは、啓示を受けると、被り物を頭から取ることで自分たちが「自由」であることを示したのでしょう。しかし、女性たちのこういった態度を、パウロは認めませんでした。パウロはコリントの女性信徒たちが礼拝で「教師」として振舞うのを許可しなかったのです。

 「パウロが女性たちが礼拝で公に登場するのを許可しておきながら、ここでそれを禁止しているのは、矛盾しているではないか」、と思うでしょう。パウロは11章で、「預言の恵みの賜物と公的な祈りの奉仕」を女性たちに許可しています。そして14章では、「語る」(ラレオ:λαλέω)ことを女たちに禁じているのです。ここで使徒は「礼拝を妨げるようなおしゃべり」のことを意味しているのでは、決してありません。

(ラレオ:古代ギリシャ語では、おしゃべり、新約聖書では宣教の意)

 結局、パウロは「聖霊によってなされた特別な啓示がない限り、彼女たちは沈黙しなければならない」と教えたのです。ですから、宣教も禁止であるので、女性が教えることは許されないという「規定」を再確認したと言えます。

 「聞く事」は、パウロの教えへの理解を助けてくれます。初代教会の説教はしばしば、集まった教会員たちに教師が質問を発する形式でした。そこでは、質問をする人が教会員を指導しました。ですから、聴き手のうちの誰かが質問するならば、教師の立場を奪うことになります。このようなことが実際にコリントの教会では起こっていたのでしょう。そのために、「コリントの女性信徒たちは自宅で夫に質問するように」、という指示を与えています。この箇所の意味は明瞭です。すなわち、「女性信徒は礼拝で教師として活動してはいけない」、ということです。


3.パウロの要求

 パウロは誤解の余地のない指示を与えました。そして、従うことを要求しています。これらの規定に従うかどうか、コリントの信徒たちは選んではいけないのです。神様の御言葉はコリントの信徒から出たのではなく、他の教会と同様に、教会の外からもたらされたものです。一つの教会が、新しいやり方を教会にもちこむのは、ある意味危険であります。

 おそらくコリントの教会では、特定の預言をする者の啓示と霊的な指導者たちの権威に頼り切ったため、こうした混乱した礼拝が行われたのでしょう。パウロは厳しい言葉で要求しました。コリントの教会に向けてパウロが書いていることは、「主の命令」だからです。

『14:38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。』

「もしも誰かがそれ(主の命令)を認めないならば、神様はその人を認めない」。と言う意味です。つまり、主の命令を認めない者は、教会に属していない事になります。この「主の命令」を無視するならば「霊的」な預言は存在し得ません。

 それだから、すべて礼拝は、「主の命令」によって威厳と秩序を保ちつつ行われなければなりません。そして、この「威厳と秩序を保ちつつ」ということがどういう意味かを決めるのは、どの各個教会でもなく、「主の命令」なのです。