ローマ13:8-14

 キリストを身にまといなさい

202312 3日 主日礼拝  

キリストを身にまといなさい』  

聖書 ローマの信徒への手紙13:1-14 

今日からアドベントです。預言者の蝋燭に火が灯りました。来週は天使の蝋燭、再来週は羊飼いの蝋燭、そして24日にはクリスマス礼拝。ベツレヘムの蝋燭と真ん中のイエスキリストの蝋燭をともします。イヴ礼拝については、例年通り24日(日)の午後7時から守ります。救い主であるイエス様の誕生を待ち望むアドベントの3週間。神様の愛に感謝して、その喜びを周辺の人々に伝えていきましょう。

 さて、今日の聖書は、ローマの信徒への手紙からです。私たちは、教会や日常の信仰生活に、神様が関わっていると信じています。ところが、礼拝を守って、集まった人たちとの交わりを終えて、教会から出ると、そこはすでに教会とは別の世界になっていないでしょうか? 教会では福音を語ります。そして、それは良い働きとなっているでしょう。でも、一歩教会の外に出たら、どうでしょう。神様のための良い働きをしているでしょうか?そして、信仰によって福音を語り、そして良い働きで社会に貢献しているでしょうか?これは、クリスチャンであることの本質であると思います。

 福音を語る事も、社会に貢献することも、神様にお仕えする事そのものです。ですから、教会や家庭での生活があって、それとは別に社会生活があるのではなく、どちらとも神様に従う生活であるはずです。ですから、社会生活の中でも、神様にどのようにお仕えするか? が私たちの課題です。

 ところで、神様に従う。その動機はどこにあるのでしょうか? 。一つは、神様を恐れている。またもう一つは、神様を敬っていることだと言えるでしょう。それから、自分の良心に従っているならば、神様に従ったことだとも言えるかもしれません。これらの動機も大事です。しかし、恐れには「怖いので、しぶしぶ」と従うとの面があります。また、敬っている相手が言うことならば、何も考えずに従うこともあるでしょう。そして自分の良心からでも、少し問題があります。「自分に従った」ことになってはいけないので、神様に聞かなければなりません。私は、今挙げたこの三つの動機を否定しているのではありません。ただ、神様に従うその行動が実は、自分の思いに引きずられているのではないか? との心配があるのです。例えば、周りの目を気にすることです。こう言うことが、「教会の外に出たら、教会とは別な社会生活」という姿を生んでしまうのではないでしょうか?

 今日の聖書にあります「愛しなさい」との命令。これこそが、私たちを動かす真の動機であります。これは、神様の命令、すなわち「掟」であります。この掟によって「私たちが互に愛し合う」ようになることが、神様の目的なのです。何のために私たちは、神様の掟に従わなければならないのか? それは、「私たちが互いに愛し合う」為なのです。もし、何のために?が明らかでないまま、掟に従うのなら、何の工夫もしないと思います。一方で、「私たちが互いに愛し合う」ようにとの目的があるならば、一工夫はするでしょう。ですから、「私たちが互いに愛したい」との目的を持つならば、「愛しなさい」との神様の命令はより強められます。

『13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。』

この節の訳はわかりにくいです。この新共同訳では「借りを作ってはいけない」と言う意味に読めてしまいます。しかし、パウロが言いたいことは、「互に愛し合うことによる借りは、大いに許される」事であります。また、「人を愛する人は、それ以上の責任を求められない」事です。ですから、こんな風に意訳をするのが良いと思います。

「互いに愛し合うこと以外には、だれにも何の義務もない、なぜなら、人を愛する者は律法を全うしたのだからである。」

人を愛する事は、最も大事な掟の一つです。そして、全ての掟は「神様を愛する事」そして「人を愛する事」につながっています。神様を愛し、人を愛していればすべての律法は完全に守られるからです。イエス様は、実際このように教えました。

マタイ『22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』

 パウロは、これに補足します。

『13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』


 第一の掟は、教会の中や家庭の中での信仰生活を、第二の掟は人との関わり方と見るとよいでしょう。パウロはここで、第二の掟に焦点を合わせています。隣人を愛しているなら、隣人の尊厳や、結婚を守ろうとするでしょう。だから姦淫はしません。同じように、隣人を愛している人は隣人を殺しませんし、盗むことも、そしてむさぼる事もしません。愛する隣人に、そのような被害があってはならないからです。だから、「隣人を自分のように愛しなさい」との掟を守る人は、隣人が困るようなことはしないのです。結果として、隣人を愛する人はどの律法も 守るはずです。


 愛とは、良いことを行なうことです。一方で、禁止命令である戒めを守っても、良いことは起こりません。そう言う意味で、「隣人を愛する」との命令は、戒めでは得られない 良い事をもたらすのであります。

そして、パウロはさらに大事なことを語っていきます。

『13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。』

パウロは、「救いは近づいている」と言いました。これはさきほどの、隣人を愛する、互いに愛するという命令に従った人々が永遠の命を頂く時がすぐにやって来ると言う意味であります。この時代は、裁きの日、つまりイエス様の再臨は、すぐに来ると考えられていたようです。

『13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。』

ここでは、イエス様が再び戻って来る時が近づいている。だから、闇の行いを捨てて、み言葉を身に着けなさい と、パウロは教えるわけです。

 私たちの教会でも、終わりの日のことを学びます。それをことさらに強調することはないのですが、それでも、特別の事とだと思います。と言うのは、イエス様が再び来られるのであれば、そのために特別に準備をするだろうと思うからです。みんながこぞって献身や、献金、そして賜物を用いて教会に仕えることでしょう。そして、社会生活では隣人を愛するように努める。再臨の時が来れば、このように対応するでしょう。しかし、逆に、まだまだイエス様が来ないのであれば、怠惰な私たちは、その時に間に合えば良いと考えてしまいます。だから、終わりの時の準備は、その時を知ってからの特別な事となってしまいます。


 『13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。』

 闇とは具体的には、酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ等を指します。その逆が日中であります。パウロは、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか!」と訴えます。

それは、日中つまり正しい生き方をしなさいということです。もうすぐにでもイエス様が来られ、裁きの時となるのです。だれもが、真剣に取り組むでしょう。このようにイエス様を待ち望む私たちは、イエス様が来られる時が近づくと、正しい生活へと導かれるのです。そして、その結果イエス様を着て、イエス様のように行動します。そのためには、闇である肉の心や欲望に身を任せてはならないのです。ですから、キリストを身にまとって新しい人となるために、人を欺き、欲望によって滅びて行く 古い人を脱ぎ捨てるのです。すると・・・私たちは、新しくされ、神様に型どって造り出された、新しい人となれるのです。

 私たちの目標は、イエス様のように生きることです。イエス様のみ言葉を学んで身に付け、イエス様のように生きる。それが、イエス・キリストを着る事であります。

そして、「肉の欲のために心を用いてはいけません。」と念を押します。私たちは肉の欲に弱いからであります。私たちが、社会生活を歩む中で神様の権威に従い、そして隣人を愛する掟に縛られます。それなのに、まだ世の富や誘惑に心を向けていては、どっちつかずですね。目移りで心が落ち着きません。また、多くの矛盾や葛藤を生むだけです。そのようなことで悩み、苦しむことが無いように、私たちは、世の富や誘惑に対して、身軽である事が必要です。思い煩いから離れる、世の富や誘惑から離れる、それはいたずらに心をゆさぶられる物事から離れるということであります。神様を恐れ敬い、そして隣人を愛するということ、それから世のことに心を奪われないということ。この三つをイエス様の再臨までに、心がけなければなりません。 

 しかし、こまった事があります。そのイエス様の再臨が何時かわからないのです。明日来るかもしれません。でも、もしそうなら私たちはキリストを身にまとう準備は、間に合いそうもありません。そして、ずっと後にイエス様が再臨するならば、それを知った時から、怠惰な私たちは備えを怠ることでしょう。しかし一方で、私たちはイエス様への信仰を告白して、バプテスマを受け、救われました。イエス様の十字架の犠牲によって私たちの罪は赦されたからです。一体それ以上何が必要なのか?・・・私たちは問われています。救われたからといって、キリストを身に着ける努力をしない人がいたとしたら、イエス様の福音はその人から先に広がりません。イエス様の福音とは、イエス様を信じ救いに与ることであり、且つ、イエス様のようになって福音を広げることだからです。私たちがキリストを身に着け、イエス様のように生きる事。このことが神様の命令であると、パウロは教えます。もちろん、今から準備を始めたからと言って、イエス様の再臨の時に間に合う保証はありません。しかし、その時になると、神様は私たちの身にキリストをまとわせて下さる。そして、私たちは救いに与るだけではなく、イエス様の福音を世界中に広げるのです。私たちは、神様の恵みによって救われ、そしてイエス様の福音にあずかりました。そして、神様のご命令は、キリストを身にまとってイエス様のようになることであります。ただ、残念です。私たちには、そのようなことは十分には出来ません。しかし、神様は私たちのために備えをしています。その神様に信頼して、キリストを身にまとう準備をしてまいりましょう。