コロサイ2:13bー19

頭であるキリスト

2023年 2月 12日  主日礼拝

頭であるキリスト

聖書 コロサイの信徒への手紙 2:13b-19           

   今日はコロサイの信徒の手紙から、初期のキリスト教の混乱についてのお話です。これは、現在の教会でも参考になると思います。

 このころの教会の課題は、「教え」を確立していくことです。パウロは、各教会に手紙を書くことでその教えを文書化していました。コロサイの信徒への手紙が書かれたAD60年から64年のころにというのは、マルコやルカが福音書を書きはじめただろうとされる時期と重なります。新約聖書がまだ書かれていないので、このころのキリスト教には、聖典がありません。あるのは、イエス様のことばを記録した語録と、パウロの手紙ぐらいなわけです。そういう意味で「教え」の確立が重要でした。また、キリスト教は、「教え」が整う前に、外国伝道をはじめます。ですから、伝道先の国特有の文化などの影響も受けたと言えます。そもそも、異国と交流すると、異なる文化が自然と混ざり合います。各国にできた教会では、キリスト教なのにその国の宗教的伝統をもったり、偽哲学思想や禁欲主義を持ち込まれたり、ユダヤ教の考えを押し通す人もいたようです。特にコロサイの教会は、「混淆(こんこう)主義」と批判されるぐらい極端でした。コロサイの信徒から、ローマで拘束されているパウロのところに、この問題で相談があって、パウロは手紙で指導しました。今日の聖書にもこのように書かれています。

『2:13b神は、わたしたちの一切の罪を赦し、2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。』

 パウロは、言いました。わたしたちのために、神様が3つのことを準備してくださったと。一つ目は、わたしたちの一切の罪を赦すこと。二つ目は、規則にしばられないように、規則を十字架に釘付けにして取り除くこと。そして三つ目が、キリストの十字架と復活とによってすべての人の作った支配と権威を打ち破ることです。

 ここで言うわたしたちが赦された「罪」とは、神様を知らない、または礼拝しない事を指します。規則にしばられるとは、ユダヤ教の戒めや掟に縛られていることを指しています。イエス様の十字架によってわたしたちの罪は贖われました。そしてわたしたちは新しい教え、新しい掟に従って生きていくのです。ですから、古い戒めや掟を、十字架に釘づけにしたのです。コロサイの教会とラオデキアの教会でなされいた「戒めや掟を守りなさい」との指導に対して、パウロは「戒めや掟は十字架の業によって取り消された」と説明するわけです。このようにパウロは、ユダヤ教の伝統的な戒めや掟を教会に持ち込むことに反対しています。一方でパウロは、旧約聖書にある「律法」そのものは「養育係」だったとして認めていました。しかし、イエス様への信仰によって義とされた今、それは必要ないのです。パウロ自身こう教えています。

ガラテヤ『3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。』


 コロサイの教会とラオディキアの教会で問題になっていた『規則』が、旧約聖書の律法を指すとしたら、キリスト教では「律法」の運用を変えなければなりません。例えば、ユダヤ教徒のしるしである「割礼」のことや、「主の晩餐式」のこと等です。最初に書かれた教えδιδαχη(ディダケー:教えの意、紀元1~2世紀に確立した、教義)によりますと、この時点ですでに律法と異なってきています。例えば、『割礼』は書かれていません。不要だとされたことは明らかです。また、主の晩餐式は日曜日に実施するように書かれています。ユダヤ教では安息日(土曜日)に主の晩餐式を行いますが、キリスト教ではイエス様の復活した日曜日を主日としています。ですから、紀元一、二世紀ぐらいに、土曜ではなく日曜に礼拝日を変更したといわれています。そして、断食をする日も、月曜日と木曜日であったものを、火曜日と金曜日に替えるよう推奨されています。また、断食を教える記事では、ユダヤ教徒のことを「偽善者」と呼んでいます。つまり、この教えが発行されたころ、キリスト教は完全にユダヤ教から離れたのだと考えられます。イエス様が復活して30年ほどで、このような変化が始まったわけです。こんな大きな変化をしている時期に、コロサイやラオディキアの教会では、偽哲学者が入ってきて異なる教えを広め始めたのですから、さらに混乱したと思われます。たぶんに、信徒一人一人の信仰が問われたことでしょう。

 パウロがここで教えているのは、「規則による支配」はキリストの十字架と復活によって打ち破られたことです。すべて人の作った「規則による支配」は打ち破られました。ですからパウロは、人の作った「規則による支配」が、キリストの権威による支配へと代わったことを教えました。


『2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。』

 食べ物や飲み物は、ユダヤ教では禁忌があります。これは律法に書かれているからです。また、国や民族によってもご食物などの禁忌は、注意しなければなりません。ほかに、地方の習慣や宗教、そして祭りについても注意すべきことはたくさんあります。ユダヤ教が毎月一日に行う新月祭は、キリスト教では行いません。また、先ほど言いましたように安息日ではなくイエス様が復活した日曜日に礼拝を守り、主の晩餐式を記念として行います。断食する日も替わっています。多くのことがすでに変わっていて新しくなっているのです。その当時すでに、昔の人の作った規則は、キリスト教には合わなかったと言えます。その反対に、ユダヤ教から見ると不要な変更なので、パウロの意見は批判されたわけです。このように折り合いが難しい中、さらにコロサイの場合は、複雑な構図でありました。それは、この部分から理解できます。

『2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、2:19 頭(かしら)であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭(かしら)の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。』


 「偽りの謙遜」と「天使礼拝」という言葉が出てきます。あまり使わない言葉なので、簡単に説明します。オリジナルの聖書では、「偽りの謙虚さと天使を礼拝することを喜んでいる人」といった書き方をしています。この人たちは、「謙虚さを誇るために」謙遜しているのだから、それを見て「評価をしてはならない」とパウロは戒めます。本来自然な態度が謙虚さです。それが、謙虚さを示したいとか、それによってよく見られたいと言うのは、自然ではありません。しかも、「謙遜」は異教徒の教えだ として、パウロは特に非難したのです。その理由は明白です。謙虚さは神様の恵みを受けた結果得られるものでありますから、その本質は聖なるものです。それが、謙虚さを見せるために、そして自分の評価を高める目的であるならば、それ自体がすでに謙虚ではなく、肉の欲だからです。神様への信仰や愛によって導かれたのではなく、意識的に謙虚さを育て、それを「喜ぶ」ならば、それはすでに神様の恵みを見失っています。「謙虚さを誇る」為に行われているからです。これは現代に生きるわたしたちも共通の戒めです。(謙虚:控えめで邪心を持たない)(謙遜:控えめにへりくだる「ただし、意図をもってやっている」)


 天使礼拝。これは、「謙虚さを誇る」事 つまり肉の思いの奴隷となってしまうことと密接に関係しています。まず、天使とは何なのかを新共同訳聖書の解説を読んでみましょう。

◆天使(てんし) 神から派遣される使者。天上で神に仕え,人間の目に見えないが,特定の人間に現れて,神の意志を伝え,あるいは人間を守護し,導く。~新約では悪魔も堕落した天使と信じられている。旧約で「主の使い」と言われるとき,多くの場合,神と同一視されている。


 悪魔が堕落した天使をさすというのは、聞いたことがあると思います。しかし、旧約聖書では悪を擬人化した悪魔は出てきません。出てくるのは、蛇やサタン、そして偶像礼拝です。サタンが登場するのはほぼヨブ記だけです。

(ヨブ記は遅い時期にできたので、メソポタミアの文化が入り込んだ。)

注)バビロン捕囚(紀元前6世紀の出来事)の帰還後にヨブ記が成立(紀元前5世紀から紀元前3世紀)しています。***

 ここで、注目したいのは新約聖書には「わたしを礼拝しなさい」と命令した天使がいることです。それは、サタンです。そもそも、「神様以外を礼拝する」と言うことは、異教の神々の礼拝、偶像礼拝、そして「肉欲の奴隷となる」事、これら全てに共通する事であります。旧約、新約とも聖書は、「神様以外を礼拝することを禁止」しています。加えて、黙示録を見ると、7人の天使のなかの一人が「天使礼拝を禁止」した場面まであります。

ヨハネ黙『22:8 ~わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」』


 パウロは、「偽りの謙遜と天使礼拝」の立場やユダヤ教の立場から、コロサイの信徒が、いろいろ批評の的になっていることについて、この様に述べます。『2:17これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります』「全てのもの、支配も権威もキリストが造られた」このようにパウロは、教えていました。そのキリストの本体を見ずに、キリストの権威の影のような不確かなものに振り回されることはないとの、パウロのアドバイスであります。

(コロサイ『1:16 天にあるものも地にあるものも、~王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。~』)


 なぜなら、「偽りの謙遜と天使礼拝」は、肉欲の結果、人が造ったもので、神様の恵みではないのです。キリストの教えに従っているように見えても、「頭(かしら)であるキリストにしっかりと付いていない」のです。パウロは、肉欲の奴隷となるのではなく、イエス様を信じ、「神様のみを礼拝する」ことを勧めました。そうすれば、「この頭(かしら)の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」

コロサイへのパウロの指導は、「教会がキリスト教の原点に戻る」ことだと言えます。神様以外を礼拝してはなりません。わたしたちは肉の思いではなく、神様の愛による導きを受け入れ、自然体で神様のみ旨に従って生きたいのです。わたしたちは、イエス様を信じ そしてその信仰によって祈ることができます。イエス様をしっかりと教会の頭(かしら)として据え、教会が「神様に育てられて成長し実を結ぶ」ように、祈っていきましょう。「偽りの謙遜」はいりません。無理をしてしまわない範囲で、自然にできることでイエス様の恵みにこたえましょう。それで十分なのです。神様は、そういう私たちを イエス様の十字架と復活によって、もうすでに お赦しになり、永遠の命まで下さっているからです。