ローマ12:1-21

信仰は愛を生み出す

  

1.世に倣わず 1〜2節

 信仰者の生き方について、指示に従うように、とパウロは言います。神様が私たちを愛して憐れんでくださったのだから、私たちは自らを「活ける供え物」として神様に捧げるべきなのです。キリストがすべての人を罪から救い出すために十字架にかかり死者の中から復活したのですから、人間もまた同じように生きるべきなのです。

 これと異なる生き方をローマの異邦人たちはしていたのでしょう。そのパウロの指摘に対して「どうして自分だけがこの世に倣った生き方をしてはいけないいのか?」といった思いがあって当然であります。パウロは、あえて「自分を変えるよう」にと、教えました。

2.キリストの身体 3〜8節

 私たちは、信仰を表し、バプテスマをうけたことを通して、キリストに結びつけられています。私たち教会に集まる者が「キリストの身体」(教会)という一つの活ける存在になっているのです。私たちの使命は、一致して神様のご計画のために働くことです。ところで、私たちは皆それぞれちがう個性を持っていて、都合のよいことをする傾向があります。しかも、他の人たちの希望には理解を示そうとしません。パウロが語っているように、人は神様から何か賜物をいただいていると、驕慢になり、自分とはちがう他人のこと(希望していることや、賜物)を理解しようとする努力をしなくなるものです。

 そもそも、神様から委ねられている役割も、受け止めている使命も人によって違います。これらの使命を受け止めている人たちは、自身と同じように全教会員が使命を感じていることを理解して行動するべきです。キリストの教会では、その成長のためには、皆が互いに仕え合うのがその本来のあり方です。

3.信仰は愛を生み出す 9〜21節

 キリスト者にふさわしい愛を保つことを主要な目的とする数多くの指示をパウロは与えています。私たちも、パウロの指示に加えて「こうしなさい、ああしなさい」と言うことができます。しかし、言われた方は大変です。「やらねばならないのか」とか「こうするほかないのか」などと考えたりもするでしょう。また、無理をして格好を整えてしまうかもしれません。パウロは、私たちの心の中にはイエス•キリストが住まわれて、その結果として私たちの隣り人に対して率先して奉仕することを期待しています。それは、信仰によって生まれる愛によってもたらされるのです。「愛すること」と「神様の戒めを守ること」とは、必ずしも正反対ではありません。ですから、「愛がそれを要求する場合には、神様の戒めを踏み越えて行動してもかまわない」と理解する人々もいます。愛は仕えるものであり、隣り人を助けようとするものです。

 パウロは多くの適切な指示を与えながら、「可能なかぎり、キリスト者は皆と平和を保ち、仲良く暮らすべき」、と説明します。そして、キリスト者は受けた不当な仕打ちに対して自分で復讐すべきではないことを話します。キリスト者が当時実際に受けていた迫害が念頭にあったのは間違いありません。当時はまだローマ帝国全域にわたる大規模な迫害は始まっていませんでした。しかし、ユダヤ人のキリスト教に対する憎悪がいつどこで噴出してもおかしくない状態が続いていました。このようなときでも、パウロはキリスト信仰者に平静さを保つよう要請しています。悪に対しては悪をもって報いてはいけません。私たちはいかなる状況においても神様の下される裁きに委ねるべきです。「善をもって悪に勝つ」のがキリスト信仰者のやるべきことです。

 キリスト教徒への迫害は現在でもなお世界各地で存在します。それなのに、私たちはそれらの迫害を気に留めないキリスト教徒なのです。心の平安が必要だと感じたら、教会に行って気分転換をはかることもできるし、家に帰ってくつろぐこともできます。パウロの時代と違って、教会も家も安全だからです。また、生活に困っているわけでもなければ、困難な試練も無いのです。このことは、私たちが「隣人を愛する」ことにとって、最大の問題であります。あまりにも、平和すぎて、言い争うこともなく、そしてお互いの危険から守りあうこともないからです。これは、平和で豊かな社会で生きるキリスト者に与えられた特有の試練であるとも言えます。この試練の中にあって、私たちの愛ははたして存続するのでしょうか。パウロの時代は、迫害と言い争いを乗り越えるために「愛」が必要でした。現代でも、迫害や言い争いから互いに守るために「愛」が必要です。またそれに加え、現代社会には、「人間関係の希薄化」があります。教会などの群れる場所を好まなくなってきているのです。特に、濃厚な人間関係を避ける傾向がありますので、群れを一体として結ぶために働くことが、教会の課題になってきていると思われます。

 パウロの伝える言葉はたしかに正しいのですが、大部分の人にとって、抵抗があるのではないでしょうか?。もちろん、各人が日常生活の中で実行して行くのが当たり前のことばかりです。しかし、言うほど簡単ではないのです。私たちは、罪人ですから「愛」を実践することは厳しい戦いだからです。日々神様に祈りながら実践を積み重ねて、罪に堕落した私たちの心の中にも「神様の愛」が根を下ろすことを期待するしかありません。神様の御旨に従おうと祈る時に、私たちは自分が罪深い存在であるがために、身代わりとして私たちの罪を引き受けてくださったキリストが必要なことを痛感するのです。