ガラテヤ6:1-11 

 私たちの重荷

2020年 711日 主日礼拝

私たちの重荷

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6:1-10 

今日はガラテヤの信徒の手紙からみ言葉を取次ぎます。これを書いたのは、使徒パウロで、紀元55年か56年ごろにマケドニアかギリシャで書かれたと言われています。ちょうどパウロは第三回目の伝道旅行の途中だったわけです。ガラテヤというのは、地方の名前です。ちょうど現在のトルコのど真ん中にあります。西はアジア州、東にはカッパドキア州に挟まれている場所です。当時は、ローマの属州でした。パウロ自身ガラテヤには、3回。伝道旅行で訪れていました。使徒言行録14章には、初めてパウロが訪れたイコニオンの町での伝道の様子が書かれています。聖書には、他のガラテヤの町は出てきませんのでガラテヤの教会とは、このイコニオンのユダヤ教のシナゴーグを指すものと思われます。パウロはガラテヤの地で神様から多くの恵みを頂きましたが、色々あったようです。使徒言行録にはこのような記事があります。

 

使徒『14:1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。

14:2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。』

パウロは、このときは身の危険を感じて逃げましたが、逃げた先のリストラの町で伝道をしているところに、イコニオンの町の人々がやって来ました。その結果はと言うと、パウロたちは石を投げつけられて殺されかけました。このように、イエス様のことを信じた多くのユダヤ人とギリシャ語を話す人(ギリシャ人とは、ギリシャ語を話す異邦人の事を指します)が与えられた一方で、イエス様を信じようとしないユダヤ人は、まだイエス様のことを信じていない異邦人を扇動しました。シナゴーグも町も真っ二つに割れてしまっていたわけです。そういう中で、パウロ一行は逃げるように引き返したのです。そんな混乱の中にあっても、パウロがシナゴーグでまいた種は育って、教会となっていきました。ただ、残念ながらユダヤ教の中にできたイエス様を信じる者の群れでしたので、やはり伝統的なユダヤ教の習慣や教えを重視する人が多かったのです。そのため、混乱が続いていたと思われます。

 

今日の聖書の箇所は、そういったガラテヤの教会が混乱している中、イエス様への信仰を守っている兄弟姉妹たちを、パウロが励まし、そして日常心がけたいことを教えているものです。

 

ガラテヤの教会はその生まれた時から、イエス様の新しい福音と、伝統的な教えの「律法主義」と衝突していました。新しいイエス様の福音は、「律法主義」にだいぶ押されていたと言えます。パウロたちが立ち去った後のことを考えると、教会が新しい福音に立ち続けてもらうためにも、この手紙が必要だったと考えられます。

そして、今日の聖書の箇所は、ガラテヤの信徒にあてた手紙の結びにあたります。パウロはここで、御霊によって歩むクリスチャンたちに求められる生き方について、具体的に教えています。

パウロの言葉は、見た目よりも難しいので、1節ずつ確認してみましょう。

 

『6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。』

 

この教えは、ファリサイ派の人たち つまり「律法主義者」と呼ばれる人々が言っている事、行っている事と何も変わらないように感じます。どこが新しいのか?と思われる人も多いでしょう。なぜならば、「律法主義」は過ちを正し、そして自分自身も過ちの誘惑に陥らないように教えているからです。しかし、パウロの教えには、律法主義とはただ一つ違うところがあります。それは、「柔和な心で」、その人の本来の姿を取り戻すという事です。律法主義で、「正す」という言葉を使う場合、それは正される人々の目線に立ったものではありません。ほぼ、裁くような意味合いがそこにあると思います。しかし、パウロがここで教えているのは、人を裁くことではなくて、柔和な心でその人に寄り添い、そして、その人が本来あった元の姿にもどる手伝いをすることです。

律法主義的な人達は、間違った事をしていないか常に目を見張って、「正してあげる」のが役目でした。ですから、見逃さずに正すことは、あるべき姿です。しかし、そこには「柔和な心」が必要です。もし、人々を正すときに「柔和な心」で係わったならば、そして人々を裁くのではなく、本来あった元の姿に戻る手伝いをしたならば、その過ちを犯した人々がどれだけ助かったでしょう。

 

そして、二つ目の注意が「誘惑」についてです。元のギリシャ語では、「自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい」と書かれていますが、それは「柔和な心」にかかっています。日本語の聖書では、二つの注意が二つの文章に分けられていますが、ギリシャ語では1つの文章となっています。そこで、パウロが言ったのは「柔和な心でその人を正す」ことと、「柔和な心のために自分自身も誘惑に陥らない」ことの二つを忠告です。

 

さて、誘惑とはどういう誘惑を指しているのでしょう? ここでパウロが言っているのは、「自分は正しい」という思いの中で、「相手を裁く」誘惑、そして「私が正しい」と言ってしまう誘惑なのだと思います。「柔和な心」で人と接しようとしても、「私が正しい」という前提があっては、相手を裁くだけで、相手の立場に立つことは難しくなります。

わたし達は、このような寄り添う事が必要な場面でその誘惑に陥らないようにしたいものです。

 

また、パウロはこのようにも忠告しています。

 

『6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。』

 

重荷を担うとは、どういうことなのか、次の節を読み進めなければなりません。

 

『6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。』

 

わたし達は、誰も正しいわけではありません。しかし、「わたしは正しい」と思ってしまいます。そして、同じように優れているわけではないのに、「わたしは優れている」と思い込んでしまいます。

パウロは、そういう人のことを指して「自分自身を欺いている」と言いました。そして「自分の行いを吟味してみなさい」と指摘します。

今の自分の方が正しいとか優れているとかは、吟味してみると簡単に結論が出ます。たぶん自分自身の事であれば、自身の満足度や目標達成度で比べることが出来ます。ですから自分自身の行いの比較については、この時の対応の方が正しい、または優れているという事はわかるでしょう。しかし、他人と比較はそうそう簡単にはできません。どこがわたしの行いと違うのかを知るだけでも相当な時間と労力がかかります。そして、人には人それぞれの価値観があります。他人の価値観を聞きだすことは困難でありますし、その他人の価値観を自身の価値観とくらべて、どちらを採用すべきかなどと言う問題もあって、結論には簡単には至らないでしょう。つまり、他人と比べて正しいとか優れているということは、ほとんど説明できないのです。そういう意味で、共通のルールや判定基準がある、スポーツや、テスト等を除くと比較することが出来ません。ですから、他人に対して誇ることは極めて困難なのです。もし、実際に他人に対して誇ったならば、それはパウロが言うように「自分自身を欺いて」います。自分自身が神様に対して誇れるのは、そして神様に対して責任を持っているのは、神様から頂いた重荷を担っていることしか無いはずです。決して他人の行動の責任を担っているわけではないのに、他人の行動を評価すること、さらには他人に対して誇ることは、神様の前では意味がないのです。

 

ところが、です。わたしたちは、それでも自分自身が優れていると思ってしまうのです。それは、「わたしは正す側の人」等、という先入観みたいなものがあったり、相手の物差しである価値観を無視していたりだと思います。そんな感覚では、自分への評価が甘くなってしまって、相対的に相手には厳しくなってしまいます。相手側に厳しくしてしまうという事は、「柔和な心」とは相いれません。また、「自分の行いを吟味しなさい」との教えにも沿っていないので、「自分自身を欺いている」の状態なのだと言えます。

一方で、「柔和な心」と言われると、相手の思いを重視しすぎて、正すことをためらってしまう心配があります。決してパウロは、「他の人たちの過ちは見過ごしなさい」と言っているのではありません。自分の思いに偏らないで、他の人たちの心に寄り添う事に気を付けながら、「過ちを正す」ようにとパウロは言っているのです。なかなか難しいことですが、このことこそが、パウロの言う重荷なのです。自分の行動を吟味して責任を負って行くこと、「柔和な心」そして「神様が良いとされる事」による行動への配慮。それは、イエス様の業を担う事でもあります。

 

ですから、その重荷を担う事によってこそ、キリストの律法が全うされるのです。パウロは、そのために一人一人が重荷を担うように教えます。

ここで語られている“キリストの律法”とは何でしょうか?

イエス様はモーセの律法を成就しました。イエス様の十字架の出来事によって、イエス様による新しい律法を下さったのです。それが、「主を愛しなさい」、「隣人を自分の様に愛しなさい」この2つの掟という事になります。(マルコ12:29-31)

 

“キリストの律法”とは、神様があなたを「愛した」ようにあなたも神と隣人を「愛しなさい」という戒めのことです。ですから、わたし達キリスト者に求められているのは、神様が愛したようにわたしたちも愛によって判断し、愛によってかかわる というキリストの律法による行動です。

そして、「柔和な心」これこそが聖霊の働きによって導かれます。私たちは、イエス様に祈らなければ、「柔和な心」を持ち続けられないのです。

 

最後に、6節から10節にかけての、パウロの言葉です。新共同訳では、1節ごとの正確な訳を目指して関係で、ニュアンスがあまり伝わらないので、わかり易い翻訳を紹介したいと思います。

『神のことばを指導してくれる人には、報酬を払って援助しなさい。もし神をあざむけるなどと思っていたら大間違い。あざむいて、被害を受けるのは自分自身だ。蒔いた種は、必ず刈り取るからだ。自己中な欲望を満たすために種をまく者は、霊的な滅びと死とを刈り取るはめになる。しかし、神の霊の種をまく者は、神の霊が与えてくれる永遠のいのちを刈り取る。だから正しい行ないに疲れ果ててはならない!あきらめずに歩み続けるなら、やがて祝福を刈り取る日が来るからだ!だから、機会さえあれば、だれに対しても、特にクリスチャンには、親切に!』Alive Bibleから

 

パウロは、この様に「神様が良い」と思われることを、すべての人々に行う様にお勧めしました。そのすべてが、「隣人を愛する」ことにつながります。しかし、イエス様に愛されているようには、私たちは「隣人を愛する」ことは出来ません。このイエス様の命令は、私たちにとって大きな重荷であります。そして、この命令「隣人を愛する」ことで、私たちは神様に誇ることはできません。もし、私たちが誇るとするならば、自分自身に対しても他人に対しても、主イエスキリストの十字架だけです。十字架の他には、誇るものはありません。なぜなら、イエス様の十字架の業があったからこそ、聖霊が降されて私たちの上で働かれているからです。イエス様は、聖霊を通して私たちにその神様の業、「隣人を愛する」事を導いて下さるのです。その恵みに与って参りましょう。