Ⅱコリント11:5-12 

 パウロの奉仕

2021年 829日 主日礼拝

パウロの奉仕

聖書 コリントの信徒への手紙二 11:5-12


「パウロの奉仕」

 

今日はコリントの信徒への手紙二から、パウロがコリントの町があるアカイア州の信徒に送ったメッセージについてお話します。この書簡の研究者たちは、フィリピかテサロニケで紀元55年頃にかかれたものと考えているそうです。

コリントの信徒への手紙二が書かれたのは、パウロの第三回伝道旅行(AD52-56)の最中でした。パウロは、その第三回伝道旅行のほとんどを小アジアにあるエフェソの町で過ごしました。そして、エフェソでコリントの教会のもめごとを聞いたパウロは、『コリントの信徒への手紙一』を書いて、仲間のテトスにその手紙を託しました。その後、パウロはマケドニア州へ向かうことにしました。エフェソにはいられなくなったのです。エフェソでのパウロの宣教活動は成功を収めていたのですが、その分パウロの発言力が大きくなったために問題が起こりました。パウロの言葉が元で、エフェソの町のシンボルであるアルテミス神殿のお土産(銀製の神殿の模型)を作っている職人たちの生活を脅かしたからです。聖書の記事には、その職人たちの訴えがこのように書かれています。

使徒『19:26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。』

結果、パウロは逃げるように旅立ちます。エフェソから陸路トロアスへ向かったパウロは、そこから船で、マケドニア州へ入ります。そしてマケドニア州のフィリピの町では、テトスと再会したので、パウロはコリントの教会について聞くことができました。パウロはテトスに手紙を託し、コリントの教会の指導をお願いしましたから、コリントのことが心配だったのです。テトスによると、まだ、コリントの教会は偽(にせ)の使徒の教えによって混乱しており、その収拾を図る事が必要でした。さらにパウロへの批判があって、弁明も必要だったのです。偽(にせ)の使徒たちは、パウロが雄弁ではないこと、パウロがコリント教会から報酬を受け取っていないことを根拠に、パウロは使徒ではないと否定されていたのです。

 

 さて、パウロが雄弁で無い事は、5節と6節に書かれています。

 

 『11:5 あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。11:6 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。』

 

 「大使徒たち」とは、偽(にせ)の使徒たちを指しています。(ギリシャ語では、使徒としか書いていません。)使徒と言ったら、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ等の弟子やパウロを指しますのが、パウロを批判する偽(にせ)の使徒たちを、「大使徒」とか「使徒」と呼ぶことで、皮肉を込めているのだと思われます。コリントの町があるアカイア地方の教会には、パウロより雄弁な人がいたのだという事です。パウロ自身は、雄弁で無い事を素直に認めて素人だと言っていますが、聖書の知識については素人ではありません。そして、そのパウロたちの働きでコリントの教会は成長したのです。ですからパウロは、雄弁な偽(にせ)の使徒たちより引けを取ることは無いと思われます。それなのに、偽(にせ)の使徒たちが、パウロを使徒としてふさわしくないとする理由は、いったい何なのでしょう。パウロの業績全体を見るのではないようです。パウロの個性のほんの一部を攻撃して、「使徒としてふさわしくない」と言っているわけです。このように情報を切り取って個人を否定する目的は何でしょうか?名誉なのでしょうか?報酬なのでしょうか? どちらにしても、人の欲からの行動としか思えません。名誉や報酬が目的ではないとしても、「雄弁でないから使徒に相応しくない」と言った主張は、イエス様の愛を実現しようとしている使徒ならば、するはずがありません。

 報酬について、パウロはこのように言っています。

『11:7 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。』

 ここを読むと、パウロは無報酬で働いたことに対し、「雄弁でないから、無報酬が相当な教師である」等と言われたことが想像されます。しかし、無報酬で働くことに対して、何か問題があるのでしょうか? このことに関してはⅠコリ8章に詳しくパウロの考えが載っております。簡単にその考えを紹介します。「報酬は、自由だ」・・という事です。パウロは、無報酬にすることによって、神様以外の誰にも縛られないことを選んだようです。また、パウロの職業はテント作り(使徒18:3)であり、伝道のための必要はマケドニアにあるフィリピ教会の献金で満たしていました。(二コリ11:9)(フィリピ4:15~16)

本来は、祭司がささげ物の一部を取る権利があるように、伝道者はその伝道活動のために報酬を得る権利を持っています。しかし、パウロはその権利を使いませんでした。一方的にコリントの教会を愛していたからです。しかし、偽(にせ)の使徒たちはパウロが報酬を取らないことを批判していました。それに対して、パウロは警戒していました。彼ら偽(にせ)の使徒たちがアカイア州の教会でパウロにとってかわることがないようにと、パウロは考えていました。ですから、パウロは、批判を受けてもこれまでのやり方を続けようとします。

パウロの書いた通りだとすると、偽(にせ)使徒たちが人の思いで機会をねらい、しかも、ずる賢くキリストの使徒を装っていることになります。驚くばかりです。実際、当時の偽(にせ)の使徒とは、どういう生活をしていたのかと言うと、当時の哲学者や教師と同じだと思われます。哲学者たちは、有力な資産家の家に泊まり込んでいて、そこから手当てをもらっていたようです。ある意味で賢いやり方で、一度入り込みさえできたら、そして嫌われない限り安定した生活を送れます。もともと偽(にせ)の使徒たちも資産家の家に住んで、資産家から給料をもらっていたのでしょう。しかし、パウロがその認められている権利を使わなかったことから、偽(にせ)の使徒たちは、パウロが報酬を受けないことを問題にしたのです。しかし、この意見を入れてパウロが報酬を取るとしたら、それも面倒なことになりそうです。もちろん、パウロが報酬を取らないと、偽(にせ)の使徒たちも報酬を貰いにくいところが問題の本質だと思います。しかし、伝道の奉仕に対する報酬については、それぞれの自由で考えることでありまして、こうでなければならないという事ではありません。

 

伝道の働きは、奉仕という位置づけで無報酬と考えることも、仕事として給料をもらうと考えることも どちらでも選ぶことが可能です。自由にしてよいのに、パウロは徹底して無報酬としたのには、理由があります。有力な資産家に養ってもらう方法には大きな欠点があるからです。それは、その特定の資産家の機嫌を損ねると失業してしまう恐れがあるのが問題なのです。資産家が「聞いて耳の痛くなるような事」は、こわくて話ができないのでは、そして、言うべきことまでが言えなくなるのならば、伝道者にとって大問題です。こういう点が、パウロが無報酬で働くことを選んだ理由の一つだと考えられます。

 

 今日のパウロが投げかけた問題は、教会の経済力と言う意味で、現代の教会でも通じるところがあります。教会には牧師と信徒がいて、牧師の働きのためには給料で生活を支えますが、信徒の働きは無報酬です。仕事を委託していると言う意味では、自主的に働く奉仕との違いはあっても、伝道のための働きという意味では差がありません。しかし、だからと言って無報酬とはいかず、現実として牧師の生活を支える必要もあります。なかなか、現実的な課題がそこにはあります。

日本バプテスト連盟の2020年度の総会資料によりますと、連盟には219教会と29の伝道所があります。そのうちの312教会・伝道所の財政データを見ると、献金が600万円(経常+建築)以下の教会が197教会もあります。連盟基準の牧師への報酬は、平均で年に700万円くらいですから、2/3以上の教会が、そういった面での苦労に直面しています。それでも、教会の財政が成り立っているのは、牧師や家族がアルバイト等の副収入で支えていることが多いようです。この方法は、パウロの伝道と近いところがありますし、牧師としての働きも「奉仕」と言う色合いが強くなります。そういう意味で対等な牧師と教会員の関係が出来るやり方だと思いますが、同時に牧師として献身する人が少ない理由でもあります。

財政規模が小さい教会では、複数の教会で一人の牧師を兼任させる手段などが使われます。しかし、バプテスト教会では一つ一つの教会が独立した個教会主義をとりますから、検討されることはあまりないようです。ここで、みなさんにお話したいのは、経堂教会は今年度の連盟の特別支援金を申請しているという事です。1教会に60万円を限度に支給されますが、2020年度は9教会に支給されました。5年間申請を続けることが出来ます。この特別支援金は、新しく牧師を迎えた財政規模が小さい教会が対象で、その教会の成長を計画的に進めるために、支給されるものです。たぶん、2021年度の審査に経堂教会は通ると思いますが、この連盟からの特別支援金を伝道費に使って、年に2回、牧師のお話付きの音楽会を開こうとの計画をもくろんでいます。

今年は、コロナで経済的に苦しい教会が多かったようですが、伝道費にとの経堂教会の申請は、満額認められそうです。5年間これを続けて、礼拝に集まる人を増やして行きたいと願っています。そして、献金が年に500万円くらいになったら、牧師を新しく招聘できる体力が備わります。そういう姿を祈っていきながら、希望を抱いて共に働いていきましょう。イエス様は、必ず祈りをかなえてくださいます。

 

 さて、パウロの話に戻ります。

 パウロは、与えるところに徹すること、『受けるより、与えるほうが幸いである。』(使徒20:35)というイエス様のみことばに従うこと、それが、誇りでした。アカイア州にいる信徒たちがパウロを批判したと言う理由で、パウロのそのイエス様から学んだ生き方を変えるようなことはありません。

パウロは、無報酬の理由をこの様に言います。

『11:11 なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。』

 もちろん、パウロがアカイア州の教会を愛していることは、間違いありません。しかし、この言い方からすると、「パウロが報酬を受けないことを見て、パウロが与え続けているところを見て、私たちは愛されていないのでは?とアカイア州の教会の人々がそう思った。」とも読み取れます。伝道の働きへの感謝を報酬として支払うことをパウロが受け入れてくれないので、そのように心配したのでしょう。しかし、パウロはその問いに気が付いていました。そして弁明はしませんでした。それは、神様がご存じだからです。

 ここで興味を持つことがあります。

偽(にせ)の使徒たちは、アカイア州の教会の人々を利用するばかりで、アカイア州の人々を愛しているようには見えません。しかし、それなのに偽(にせ)の使徒たちに愛されていると思い込んでしまっている人々「も」いるということです。そしてその反対に、パウロは、アカイア州の教会の人々を愛して、一方的に与えてきていることを知っているのに、パウロに愛されていないと心配する人々がいます。

つまり、アカイア州の信徒たちは、人に愛されているかどうかも正しく受け止めることが出来ていないと言うことでしょう。パウロは、そのような状況を理解したうえで、偽(にせ)の使徒たちが力を持って勢いづかないよう、アカイア州の教会のために働き続ける事、そしてアカイア州の教会を愛し続けることを宣言しました。

 『受けるより、与えるほうが幸いである。』(使徒20:35)というイエス様のみことばに従う。パウロは、このような信仰をもって伝道をしました。私たちは、パウロの生き方をそのまま見習うことは到底できませんが、いつも受けるだけのみ言葉を、私たちがどこかのだれかに向けて 発信することはできます。それは幸いなことです。どうか、この連盟からの特別支援をうけるこの機会に、少しだけ、「与えるほう」を増やしてみましょう。イエス様は、それを見てきっと祝福なさるでしょう。