コリントの信徒への手紙一15:12-34

死者の復活

聖書研究


1.自由な思想家

 パウロが「死者の復活」というテーマを取り上げたのは、コリントの教会がこの問題を抱えていたからです。教会には人間が復活することを否定する人々がいました。「死者の復活」は、いつの時代にも人々が躓いてきた信条であります。

 古代のギリシア・ローマの世界では、「人間の身体は物質であり悪にすぎないが、人間の魂は栄光と善を表すことが出来る」という見方が支配的でした。身体は、魂が善を考え実行する可能性(たとえば信仰深い生活)を制限している、というのです。このように考える人々にとって、「人間は一個の全体であり、完全に神様のお造りになった存在である」という旧約聖書に基づく伝統的な考え方は、受け入れがたいものでした。

 コリントの思想家たちは、「死者の復活」を認めようとはしませんでした。それは彼らにとってひどく不快で無教養で異質だからです。また、抽象的な考え方、誤解を招く考え方だったからです。コリントの思想家たちがどのような信仰をもっていたかは、私たちは知り得ません。彼らは、おそらく何らかの形での「魂の不死」を信じていたのでしょうが、「死者の復活」のことは断じて信じようとはしなかったのです。

2.復活と言う事実

 パウロはまず、一般論から始めます。

『15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。』

前提として、キリストの復活が事実であるという所をよりどころにしたものです。ひとりの人間であったイエス様が復活したのは事実です。一人が死から復活したならば、他の人が死から復活しないとは言えません。そもそも、死者は復活するからイエス様が復活したのです。このように、全ての死人が復活する可能性が全くないとは、論理的には言えないのです。イエス様だけが復活できるという証拠が無い限りは、イエス様が復活した事実は、人間が復活できるとの結論に至ります。そして、イエス様の復活の大本にあるのは、神様はキリストの贖いを認めて、次のみわざである永遠の命を与えるための働きのために復活させた、ということです。この一連の出来事の中のどの部分も重要であり、そのどの部分も完全な真理です。

 創世記の4記事によりますと、人は皆、死にます。なぜなら、アダムが罪を犯し、神様は人を罰し、人の上に死を与えたからです。また、人は皆、死者の中からよみがえります。なぜなら、イエス様が世に命を与えてくださるからです。このことは、神様の御子イエス様が受けていた権威すべてを神様に返して、神様の権威に従う「終わりの日」に、明らかになります。

 パウロが話している内容は、彼自身にとっても大切なものです。神様は、キリストの贖いのみわざが成し遂げられたため、キリストを死者の中から復活させたのです。キリストが死者の中から復活したのですから、人は皆、死者の中から復活する可能性があるということです。イエス様の約束によって、人が皆、復活することを信じる私たちは、各々が死者の中から復活すると確信しています。この一連の出来事のどれかひとつでも否定する者は、全体を否定することになります。人は皆復活することを信じない者は、キリストの贖いのみわざも、神様がキリストを遣わされたことをも、そして神様がキリストを復活させた事実をも否定することになります。

 パウロによれば、キリストの復活がなければ、キリスト教は決して存立しえないのです。もしも復活を否定する場合には、すべての神様の業を否定することになるからです。そして、キリストの復活が事実であるからこそ、私たちは「死者の復活」を信じ、イエス様の再臨を待つのです。

3.復活が無ければ?

 『死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。』

 (このパウロの言葉は、難解であります。いろいろ、解釈はあるようです。)

 コリントの信徒たちは、これが何を言っているのかを、知っていました。「クリスチャンとなっていた家族や親戚が復活した後、共に生活をするためにクリスチャンになる人たちがでてきた」、ということが起こっていたということです。もしくは、「コリントの教会では、すでに死んだ家族や親戚の救いのために、死者にバプテスマを受けさせる人たちがいた」、ということです。

 パウロはこの「死者のためのバプテスマ」に関しては、良いとも悪いとも言っていません。しかし、実際それが行われていることだけを指摘しました。もしも復活がないのならば、そのようなバプテスマは無意味です。そして、信徒たち全員の苦労も、彼らが自らを危険にさらしたことも、無駄だったということになります。このように復活を認めないのならば、教会が無意味なものとして倒れるか、というほどです。それほど、大切な信条なのです。そして、「死者のバプテスマ」を行うというパウロの指摘は、復活を信じているそして、前提としていることを再認識させられるものです。