コヘレトの言葉8:8-17

どんなに労苦し追求しても  

 1.見極め

  1節から8節にかけて、…時、災難、出来事への予見、霊の支配、戦争を免れ得ない…など、人には支配できないことが記されていました。それを見極めたコヘレトは、「人間が人間を支配しているから苦しむ」と言います。支配しようとあえぐとき、そして支配から逃れようとあえぐとき、どちらであっても、思い通りにならないことが多いのです。人が人を支配しようとしなければ、その多くのあえぎは、必要が無いことでしょう。

 人々は、このような矛盾をみると、空しくなります。「悪人が豪華な葬儀をしてもらい、聖なる場所に出入りする。しかし善人は忘れられる」と。これでは、単に強いものがやりたい放題の世界でしかありません。

2.神を畏れる

 「本当に神はいるのか?」と言う意味で問います。「悪事の防止より先に大胆な悪事が行われ、悪事をたくさん働いた者が長生きしている」。それでも神はいると言えるのか? 私は、神はいると言えます。

なぜなら、神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になります。そして、 悪人は神を畏れないから、長生きできません。わたしは、それを知っています。(「長生き」とは、天国に召されること)

神は人と愛の関係を求めているので、人に自由意志を与えました。したがって神は、「放っておいている」というのではなく、人間のすることに「手出しができない状態」なのです。しかしながら、神は罪人から離れたのではありません。もし、神が手を出さなかったなら、人間はさらに罪の中に入り込むでしょう。そして、必ず行き詰まります。神はその時を、神に助けを求めるその時を待っておられるのです。

悪人が高ぶり、善人が虐げられるような矛盾を感じるのは、神が愛なるお方で、忍耐して人の悔い改めを待っているからです。コヘレトがこの世の様々な不公平や不条理を指摘しますが、その目的は、神の真理を知らせることです。その真理とは、「神を畏れるか否か」によって、「長生き」か「短命」かが決まることです。神を畏れるとは、神を受けること、すなわち神の愛を受け取ることです。

3.不条理な報い

  善人なのに悪人の業の報いを受け、悪人なのに善人の業の報いを受け取る。これは、善悪とその人生の結果には、相関関係がないことを示しています。

ある人が愛され、良き人格を持ち、努力し、良き社会人として裕福に生きることが出来た。それは、彼が善人であったから良き業を得た」と言うのでしょうか?。そして、その結果ですが「その人には神が必要なかった」のです。

またある人は、「出生からして不幸で、どん底を通らされて死んだ。彼は悪人だったに違いない」と言われるのでしょうか?。実際、その人は「神を信じ頼らねば生きられなかった」のです。

人生で大切な業(報い)は、イエスを主と信じる信仰の業なのです。人生の見える結果ではありません。

4.見極めの結果

 カルデアのウルに居たアブラム夫婦には子がなく、「あなたを大いなる国民とする(子孫が与えられる)」との神の声を聞き、約束の地カナンに到着したのは75才でした。しかし、子は得られませんでした。

彼らに約束の子イサクが与えられたのは、さらに25年後、彼の100歳の時でした。このように神のなさることは、人の理解を超えています。私たちが不可能と思うことを神は完璧になされるからです。わたしたちは、神様の行う真実を理解することができないので、その「不思議」を見ることしかできません。

コヘレトはすべての神様の業を観察しました。…太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。…賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。

 どんなに科学が発達したと言っても、解明できていることはほとんどありません。ただただ、注意深く観察して、何度も繰り返して起こることは、予見できるようになりました。しかし、それは解明されたのではなく、同じ条件での経験が積み重なっただけです。すべて世の中の出来事は、神のみ業です。人間にとって一番大切なことは、神のみ業を解明できないことを知ることにあります。私たち人間の理解を超えた神の御業を悟るのが、信仰のはじめです。