コリントの信徒への手紙一9:19-27

福音に共にあずかる


1.誰に対しても自由

 『9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。』

 マルティン・ルターは、「クリスチャンはすべての者の上に立つ自由な主人だが、すべての者に仕える奴隷でもある」という有名な言葉を残しました。これは、このパウロの言葉を言い換えたものです。すべての人の奴隷となる、というのはどういうことでしょうか?。それは人々に対して自分の権利を主張しない、自分の自由を自ら制限することです。パウロはコリント教会の人々に対して、主人のようにではなく、むしろ仕えるもの、主人に対する奴隷として接してきたのだと言っているのです。

 パウロは、ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました、と言っています。よくよく考えれば、これは不思議な言葉です。パウロも生粋のユダヤ人だったわけですから、おかしな言葉です。パウロはいったい何を言っているのでしょうか?。パウロの語った福音の一番の特徴は、「モーセの律法からの自由」を説いたことです。あからさまに、律法を守らなくてもいい、という趣旨です。これは驚くべきことです。しかし、私たちはもともとあらゆる面で十戒すら守れてはいません。例えば、安息日は完全に無視しています。私たちにとって日曜が特別なのは、十戒の教えのためではなく、それがイエス様が復活した日だからです。このように、私たちが土曜日を安息日としないのは、私たちがモーセの律法から自由であることの証拠なのです。ただし注意いただきたいのは、「十戒を守らなくてよい」と言うわけではないことです。「大切な教え」であることを尊ぶべきであります。

 使徒パウロは、「モーセの律法からの自由」を唱えました。彼は特に、ユダヤ人でない異邦人クリスチャンにモーセの律法を守らせることに反対しました。それは本当にありがたいことでした。例えば、日本人にユダヤの習慣を守れと言われたとしたら、私たち日本人クリスチャンはどうなるでしょうか? まず、食生活が激変。豚やうろこの無い魚も食べられません。このような不自由があって良いはずがありません。パウロはそのような不自由から私たちを救ってくれたのだと言えます。パウロがユダヤ人以外の外国人にモーセの律法を守らせるのに反対したのは、救いはイエス・キリストを心から信仰することによって得られるのであって、「ユダヤ人のように生きること」ではないからです。ですからパウロはギリシャ人など、外国人のクリスチャンと一緒にいる時は、自らもモーセの律法には厳格には触れずに、彼らの流儀を許容したことでしょう。

 しかし、パウロがモーセの律法を忠実に守っているユダヤ人に対してイエスをメシアとして受け入れるように説得する場合は、そうはいきません。ユダヤ人でありながら、神の掟を守らないとは。神をも恐れぬ不届きな人だとして、パウロの説く福音を受け入れようとはしないでしょう。そのようなつまずきを与えないために、自分もモーセの律法に完全に従う、と言うのです。ですから、パウロ自身もモーセの律法から自由な身であるのに、その自由を捨てて、不自由の中に、また制限された生活の中に生きるといっているのです。

 22節でパウロは『弱い人々には、弱い者になりました』とあります。弱い人とは、信仰が弱い人のことです。信仰の弱い人は、偶像の神殿の中で偶像礼拝者たちと行動を共にすると、彼らに影響されて、偶像の神々も本当にいるのではないか、彼らにも礼拝をすべきではないのか、と感じてしまうのです。パウロが「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」と言っているのは、自分も彼らのように肉を食べるのを我慢する、ということなのです。パウロが強い人のように肉を食べてしまえば、弱い人たちの信仰のつまずきとなってしまうからです。そのようなパウロの生き方をコリント教会の「強い人たち」にも示し、彼らも弱い人たちを思いやって行動するようにと促しているのです。

2.福音の本質

23節では、『福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。』とあります。この「福音の恵みを共にあずかる」という言葉ですが、「福音を頂くために」と言うことではなく、「共に福音を体験したい」と理解してください。福音の本質は、神様であるイエス様が、自らの権利や自由を捨てて貧しい者となり、他の人たちを豊かにした。その、生き方そのものにあります。パウロもまた、肉を食べない、献金を受け取らない、律法からの自由を満喫しないなど、自ら自由を捨てることで福音の本質を実践していたのです。

 「自由と福音」が大きなテーマです。キリスト教の本質は「自由」にある、と言われています。イエス様は、こう言っています。

ヨハネ『8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」』

パウロもまた、このように言っています。

ガラティア『5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』

 このように、福音は、私たちに自由を与えます。では、私たちは与えられた自由をどのように用いるのか、そのことが問われています。パウロは、コリントの強い信徒たちが自らの自由を享受するために弱い人たちの信仰を顧みない態度が、「福音の本質から外れている」と見ました。なぜなら、イエス様ならそのようなことは決してしないからです。イエス様は、貧しい人たちのために進んで自らの自由を捨てるようなお方でした。そのような生き方こそ、福音なのです。パウロはそのことを伝えるために、言葉だけでそうしたのではありませんでした。むしろ、パウロの生き方そのもので イエス様の生き方を示そうとしたのです。