ルカ20:20-47
皇帝への税金
1.皇帝への税金
当時のユダの国は、ヘロデ大王のあと4つに分けられ、独立国ではない属州としてローマの総督の支配でした。そして、死刑はローマ総督に判決権がありました。また、税金は1/10税をかけられています。ローマに収入の10%を収めるわけです。律法学者たちや祭司長たちは、イエス様を貶めるために、機会を狙っています。「ローマに反逆しようとしている」と言う言質をとるために、回し者を出します。
「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」
質問自体は、「皇帝に税金を納めなさいと、神様は命令しているのですか?」と言うことですが、言い方を間違うと「イエスは、ローマに税金を払う必要はない」と言っているとか、「イエスはローマに逆らうようにけし立てている」とみなされてしまいます。
イエス様は、それを見破って「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」
と聞きます。そこには第二代皇帝のテベリウスの肖像が刻まれています。イエス様は、答えます。
「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
そもそも律法は、神様の定めた戒めであって、皇帝と個人の契約とは全く関係がありません。それを、皇帝との力関係で負けたユダヤの民が税金を負う義務があると、神様は言っているのか?と 回し者は、巧みな罠に引っ掛けようとしたのです。
2.復活についての問答
当時この地域では、レビラト婚が行われていました。子供がいないまま夫が死んだ場合、夫の兄弟がその未亡人と結婚し、血筋を守る義務があります。そうそう、ない事でありますが、サドカイ派の人が7人の兄弟と結婚するなどと極端な想定を出してきました。サドカイ派の人々は、復活を認めません。もし、復活を認めるならば、この女は誰の妻に・・・そういう、矛盾がでるのだから、「復活などない」と言う趣旨です。
復活して、永遠の命が与えられるならば、もはや結婚の必要はありません。
出エジプト『3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。』
モーセの芝の燃える場面で、神様がこのように言いました。アブラハムもイサクもヤコブも一度死んではいるものの、永遠の命を頂いて、復活しているのです。もし、この3人が復活していないで、死んだままであれば、神様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とは、言わないはずです。少なくとも、過去形となります。だから神様は、彼らの神であり続けていると主張しているのです。
3.ダビデの子のついての問答
詩篇『110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」』
「わが主(アドナイ)に賜った主(ヤハゥエ)の言葉」ですから、ダビデがわが主と呼んでいるのは、救い主の事です。救い主は、神でありますから、ダビデの子孫と言うことにはならないのです。
4.律法学者を非難する
高慢で、貪欲、そして見栄っ張り。律法学者は、ほぼファリサイ派の人々であり、尊敬を集めることにばかり腐心するのでした。イエス様は、そのような律法学者を非難します。誰よりも自分を愛している彼らは、裁かれるべきなのです。
ファリサイ派には、女性の信者も多く、律法学者は絶対的な影響力を持っていました。ここで、「やもめの家を食い物にする」とは、やもめの部屋でも、絶対的な影響力を持っていたことを示します。見えないところでそういうことをする人々が、人々の前では、見せかけの長い祈りをするのです。