サムエル記上
16:14-23

神の霊によって

2022年 6月 26日 宣教

 聖書 サムエル記上16:14-23

「神の霊によって」

 今日から来週の日曜日までの一週間は、日本バプテスト連盟の神学校週間です。今日は、東京バプテスト神学校で学ぶ氷川英俊さんの証しをお聞きしました。日本バプテスト連盟と各地方連合には4つの神学校があります。西南学院と東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校、そして北海道の研修センターです。その中で連盟の神学校と位置付けられているのが、西南学院大学神学部です。現在の学生は、神学コース3名と、大学院の博士前期コース2名、そして特別研修生2名の計7人です。最短で3年、通常4~6年で牧師になりますので、年に1、2名の牧師を世に出すことになります。残念ながら今年度は学部、大学院を終える予定の人はいません。西南学院は、日本バプテスト連盟の中心的な神学校ですので、献身者が出て西南学院神学部に入るよう連盟全体で祈っていく必要があります。

 次に、東京バプテスト神学校です。運営主体は、東京連合で、後に北関東連合の支援と、神奈川連合が支援をするようになりました。教室は文教区の茗荷谷教会にあります。ここには、神学専攻科 7名、教会音楽専攻科1名の計8名が神学生として学んで、牧師・教育主事や音楽主事を目指しています。専攻科は2年ですので、年に4人くらいの教役者養成が見込まれます。また、多くの人が教会での奉仕のために東京バプテスト神学校の講義を受講しています。

 次に九州バプテスト神学校です。九州バプテスト神学校は、福岡市の大名にあります。本科と専攻科があり、専攻科9名が神学生として九州バプテスト神学校で学んでいます。牧師になるのは、年4人くらいが見込まれます。

 以上 1年に約10名の教役者候補を輩出するわけですが、神学校週間でこれまで30名分の奨学金が必要と訴えてきた事から見ると、まだまだ献身者が必要です。ですから、最も皆さんに祈ってほしいことは、献身者が多く与えられることです。今連盟には、約300の教会・伝道所がありますが、約一割の教会には牧師がいません。宣教を維持するためには、牧師または宣教する教会員を養成し続けることが必要です。ぜひ、献身者または宣教奉仕者が多く与えられるよう、お祈りください。 

 

 続いて壮年会からのアピールです。全国壮年会が進めています神学校献金は、主に神学生の授業料8割相当の奨学金として使われます。2022年度の奨学金の見込み額を言うと、西南学院6名に約700万円。東京バプテスト神学校4名に54万円、九州バプテスト神学校2名に16万円の奨学金を支給することになります。

 経堂バプテスト教会の昨年度の神学校献金は、24,000円で、14,000円をこの奨学金用の神学校献金として献げました。そのほかに、経堂教会では東京バプテスト神学校と九州バプテスト神学校向けに、神学校の運営のための献金を5,000円ずつ献げております。なお、西南学院神学部の運営のためには、私たちの協力伝道献金から連盟を通して支援しています。

 また、教会も少子高齢化等で財政規模が小さくなってきています。献身者が少ないだけではなく、牧師を招聘することが困難な教会が増えているのです。それでも、宣教は維持しなければなりません。そのために、信徒の一人に神学校で学んでもらって、宣教を委託する判断をした教会もあります。東京バプテスト神学校や九州バプテスト神学校は、仕事をしながら学べる夜間の学校ですから、そういった志を持つ信徒の学びの場として、活用されています。このことも、憶えてお祈りください。 ここまでが、壮年界のアピールでした。

 

 今日は、サムエル記から、「サウルとダビデ」の物語です。サウルは、神様から選ばれて油を注がれた者(メシア:のちに救世主を指す言葉となる)で、イスラエルで、最初に王となった人です。(10:1)しかし、アマレクと言う民族と戦った時、神様の命令「アマレクを滅びつくせ」(15:3)を実行しませんでした。滅ぼしつくさずに、家畜を戦利品として手にいれていたのです。そのことで、神様は、サウルを王様にしたことを悔みました。神様の民を支配するために立てられた王様ですから、神様の命令に忠実でなければ、ふさわしくないのです。

 

 そこで、神様はサウルに代わる者を選びます。その新しい王様は、「その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:2)ような人物が望まれます。そうでなければ、またサウルのように、神様の力を頂いていながら、神様の命令には背くことになってしまうからです。神様に背くことがないように、神様に従う忠実な者を神様は選ばれました。その選ばれた者こそが、後にユダとイスラエルの王になる少年ダビデです。預言者サムエルは、神様の指示に従ってベツレヘムのエッサイのところへ行き、少年ダビデに油を注ぎました。

 ここですでに、神様は大きな決断をしました。サウルは、まだ王様なのですが、新たにダビデに油を注がせたのです。このことは、神様の祝福が、サウルにではなくダビデの注がれることを象徴しています。また、イスラエルの王様も、いずれダビデになることを意味します。このことを、サウルが知ったならば、サウルはダビデを殺そうとするでしょう。たとえダビデがサウルの手から逃げ延びたとしても、サウルとダビデの間には争いが起き、イスラエルが混乱するはずです。そうなったとしても、神様は、ダビデを守ると決めていたのでしょう。神様は、ダビデを油を注がれた者として立てることを選び、そしてイスラエルの王様の代替わりを進めたのです。

 

 ダビデに油が注がれると、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」(16:13)のに対し、今日の聖書の個所では、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」(16:14)とあります。聖書は、油を注がれた者に神の霊が注がれたこと。つまり、神様がダビデを王様にふさわしいと認め祝福したことを示しています。このダビデへの祝福は同時に、王様に相応しくないとして、サウルから「主の霊が離れる」ことを示します。ですから、サウルは、この後イスラエルの王様を続けていても、それにふさわしい神様の霊の導きが無いことを、明らかにしています。

 サウルから神様の霊が離れただけでなく、さらに「悪霊」がサウルの心を悩ますことになります。ここで注目したいのは、「悪霊」もやはり「主から来る」と書かれていることです。サウルを悩ます「悪霊」は、神様の命令に従わなかったサウルに原因があるのです。これは、「神様の裁き」なのです。

 神様は、王様として用いてきたサウルを この時に見捨てたのでしょうか。この時を境に厳しい仕打ちがサウルに降りかかります。神様はどうして、このようなことをされるのでしょう。・・・いいえ神様は、完全にサウルを見捨てたのでは無いと思われます。神様は、サウルが悔い改める時を待っておられたのだと考えられるからです。神様は、そのサウルの悔い改めのために、「悪霊」をお使いになったのです。もし、神様がサウルに何も期待していなかったのならば、神様はこのようなことをする必要はありません。さっさとダビデを王様にして、サウルを一国民に格下げすれば済んだでしょう。しかし、神様はそうはなさらなかったのです。

 

 サウルが悪霊にさいなまれ始めると、サウルの家臣でさえも、その原因を理解していました。そして、「神からの悪霊でしょう」とサウルの目の前で堂々と言います。すでに神様の怒りは、預言者サムエルによってサウルの家臣も知っていたからです。また、サムエルの言葉つまり神様のご意思に対して、サウルは耳を貸そうとしないことを家臣は知っていました。ですから、「美しい音楽こそ そのサウロのさいなまれた心を和ませるだろう」とサウルに助言します。そして、連れてこられた心に癒しを与える「竪琴の名手」が、ダビデでした。こうして、神様の霊によって、油を注がれた二人は、出会ったのです。神様は、サウルには、悔い改めを求めています。そして、ダビデには王様となる準備として、サウルの下での経験や人の心の掌握を期待してだと考えられます。実際ダビデが奏でる竪琴の音に、サウルの心は癒されました。ダビデはサウルが悪霊に襲われるたびに、竪琴を奏でてサウルの心を慰めました。ダビデが竪琴を弾くと、悪霊がサウルから離れたのです。この記事から、神様がダビデと共にいて、ダビデの竪琴を通して「サウルの心を慰めていた」ことがわかります。ですから、サウルは神様から見捨てられていたのではありませんでした。神様は、サウルが神様の方に 「立ち返る機会」を与えていたのです。

 

 この将来の王様であるダビデと今の王様であるサウルの出会いが、神様の霊によって行われました。神様の霊によらなければ、この出会いはありませんでした。そして、この二人が王様の立場を巡って戦うことになるとは、誰も想像もできない事です。その将来に、二人が気づくこともないまま、神様の霊によって導かれていきます。

 全ては、神様のご計画でした。サウルの家臣が「神様の悪霊」が原因だと明言したことや、その家臣が竪琴の演奏でサウルの心を癒そうと提案したことは、偶然の出来事ではありません。神様の霊は、強い意志をもって、そのように導いたのだという事です。そして、従者の一人が「ダビデが竪琴の名手」であることを知っていました。そして、その場ですぐに提案してしまう・・・。全てが、するすると進んでいきます。さらには、その従者が「まさに主が共におられる人です。」とサウルに強く勧めるわけです。このように、サウルの周りのすべてがまるで事前に打ち合わせたお芝居のように、都合がよく回っていきます。そこには、ダビデをサウルに仕えさせようとした、神様のご計画があったからです。そして、サウルのことも忘れてはなりません。サウルは、家臣や従者の勧めた言葉を通して「神様の慰め」を受け入れたのです。こうして、後に王様の地位を争う少年ダビデはサウルに仕えました。サウルにとっては、王様の地位が危うくなるわけですが、この時はまだ知らなかったので、何事も起こりませんでした。もし、ダビデに油が注がれたことをサウルが知っていたら、この出会いはなかったかもしれません。

 人々の願いや思い煩いを超えたところで、神様は民を救いたいと思っておられます。そして神様は、現実の私たちの世界の中でも、救いを実現される方です。神様は、サウルを選び、そして少年ダビデを選びました。こうして召された二人は、対照的な人生を歩みました。どちらも、神様の仕事のために召されたのです。そして、二人とも神様の前に罪を犯しました。しかしながら、大きな違いがあります。それは、ダビデは罪を犯しながらも、神様の前に悔い改めたことです。そのために、イスラエルの民もダビデも神様の恵みを多く受け取りました。そして、ダビデの末にイエス様が生まれ、私たちと神様との関係を繋いでくださっています。

 現代に生きる私たちにも、神様の選びと召しがあります。神様が一方的に用いることを決め、「神様の霊によって」そのように導くのです。神学校で学ぶ人たちにも、神様の召しの中にいます。そして、近い将来、どこかの教会の働きの中で用いられて、固く立てられていくでしょう。私たちはまた、神様の召しを受け入れることによって、神様によって育てられるのです。サウルやダビデもそうでした。彼らに栄光があったのは、用いていれる神様がおられたからです。わたしたちは、神様から信仰をいただくことによって、神様からの救いにあずかり、そして平安をいただきました。それは一方的に、神様から愛されているからです。神様は、その独り子イエス様を私たちに降されました。私たちは、十分な者ではありませんが、召された時にイエス様の御用をお受けしたいと願います。なぜなら私たちは、神様の愛に応えたいから、そしてイエス様のご命令だからです。これまでも私たちの足りない働きは、イエス様が補ってくださいました。これからもそうです。イエス様は適切に導いてくださるのです。ですから、私たちは、イエス様の導きを信じて、そして神様のご計画のために召されたことを祈って受け入れながら、働くことが喜びとなるのです。神様は、そのご用のために具体的に「神様の霊」を降します。その神様に感謝するとともに、神様に信頼して、教会の働きを支えてまいりましょう。