ルカ11:1-13

 祈るときには


マタイ『6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』』


1.主の祈り

 マタイとルカにだけ、主の祈りがあります。マタイの主の祈りのルカにないところにアンダーラインを引きました。現代の主の祈りは、マタイをベースにしておりますが、翻訳や教派によって、微妙に違っています。最古の福音書とされているマルコでは、

『11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」』とだけあります。

ですから、紀元70年代くらいに主の祈りが出来上がったのかもしれません。


 バプテスマのヨハネの弟子の内2人が、イエスの弟子になっています。(ヨハネ1:37、40)その1人が12弟子のアンデレですから、イエス様の弟子たちはバプテスマのヨハネの教えも知っていたと思われます。この主の祈りで、私たちは教えられないとわからないだろうと思われるのは、この部分です。

『わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』

 負い目とは借金を指します。「私たちに負い目のある彼を赦しますので、私たちの罪を赦してください」ここでは、赦してもらう条件としての、対価が必要との意識があるようです。マタイを見ると、その意識が明確にイエス様の言葉となっています。

マタイ『6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」』


そして「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」とは、原文にない文言です。


2.天の父は良い物を与える

 この譬えは、ちょっと非常識な人が 真夜中に友人を訪ねるわけです。そして、お願いするのはパンを三つ貸してもらうことでした。旅行中の友達は、男性一人です。ですから、パンは一つで良いはずですが、彼は、自分が食べるパン一つと、予備のパン一つを合わせて三つ貸してもらうように願います。


 当然ながら、真夜中ですから起きて相手をしたくありません。それに、パン三つなどと必要を超えた要求でもありますし、どうして、そこまでしてあげようとは思うでしょうか?。しかしイエス様は言います。

『その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』


 この言葉も意外なものです。「友達だから」与えてくれるのではなくて、「しつように頼んだから」与えてくれる。 ・・・確かに、夜中にしつように頼まれたら、家族は起きるし、隣近所の人々にも迷惑をかけます。あとあと、「そんな簡単なこともしてあげなかったの?」とのそしりも受けるでしょう。こんなことでは、訪問された方が、踏んだり蹴ったりです。


 その点はさし置いて、パンをもらいに行った人の立場だけを考えましょう。確かに、相手の迷惑を考えると、真夜中に訪問することも、パンを3つも貸してくれと言うのも、しつように頼むことも きわめて非常識です。しかし、そこでためらったのでは、三つのパンは手に入りません。そうしたら、旅行中の友人に食べさせることもできなければ、明日の朝自分が食べるパンもないのです。(もしかすると、自分の食べるパンが主の目的かもしれません)真夜中で、他にあてが無ければ、ここでしつように頼むしかないわけです。もし、そうしなければ、ほしいパンは手に入らないからです。


 イエス様は言います。

『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。』

 たしかにそうです。求めていないのに、黙って与えてくれることなど、ほぼ無いと言えるでしょう。また、探しもしないで見つかるなどと言うことを期待することは出来ません。そして、この深夜の訪問と同じで、門をたたき続ければ、その家の人は門を開けるしかなくなります。大変迷惑な事ではありますが、求めているならば、そしてその求めている物に相応な価値があるのならば、覚悟を決めて要求すべきでしょう。そして、具体的に行動に移さなければ、何も始まりません。訪問し、要求をし、そしてしつようにお願いするのです。ただ、このイエス様の言葉は「祈るときには」の続きであります。神様に祈るときには、真夜中の訪問で、門をたたき、しつようにお願いする。このことは許されています。


 祈る相手が神様ですから、お願い事もそのまま聞かれるのではなく、本当に必要なものを与えてくださいます。我々人間の父親であっても、「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える」ようなことも「卵を欲しがるのに、さそりを与える」こともしません。だから、しつように求めてかまわないのです。


『11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」』


 もしあなたが悪(つまり、本質的に罪深い)であり、あなたの子供に良い贈り物をする方法を知っているなら、あなたの天の父は彼に尋ね、尋ね続ける人々に聖霊をどれほど与えるでしょう。しつように祈り続けることで、神様は私たちに聖霊を降り注いでくださっているのです。そうすれば、私たちは聖霊によって働きかけられます。そして、本質的に罪深い私たちが、祈る。その祈りも聖霊によって導かれます。そうすると、求めたいものが一層明確になって、そして祈りが良い方向へと修正されていくのです。