マタイ11:25-12:8

 安息日に麦の穂を摘む 

1.私のもとに来なさい


 前の個所で、ガリラヤ北岸の町を、「しるし」があったのに悔い改めないとイエス様は嘆きました。イエス様は、この「しるし」について、父なる神の意図に気が付いていたのです。『知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』とイエス様自身が話されています。

イエス様の「しるし」が、わかったのは、知恵ある者や賢い者ではなかったのです。純粋に幼子が親を信じるように、何の知恵も働かせずに受け入れて信じた人だけだったのです。神の子であるイエス様だからこそ、父なる神がこのことをイエス様に体験させた意図がわかったのです。

 

軛(くびき、ヨク)とは動物に荷を引かせるときに首にかける木のこと。英語ではyoke。


 軛をかけることは、そのままズバリ重荷や、重税をかける事を指します。「イエス様の軛は、負いやすく、は軽い」とイエス様自身が言われていますが、イエス様の軛とは、何を指しているのでしょうか?。 疲れた者、重荷を負った者にとっては、イエス様の軛の方が軽いのでしょうか? イエス様の軛を負い、イエス様に学べば、安らぎが与えられる。なぜでしょう? これがわかるのは、「知恵ある者や賢い者」ではありません。幼子の様に信じた者なのです。イエス様を信じたならば、イエス様の軛を負うことになります。そして、イエス様に倣います。イエス様の求められている軛は、これだけなのです。そして、イエス様からの安らぎを得られるのです。

 

 

2.安息日に麦の穂を摘む


安息日を守らない弟子たちをファリサイ派の人々が、イエス様に言いつけます。しかし、イエス様は、ダビデが息子アブサロムに追われたときに、祭司アヒメレクのところで、パンをもらったことを言い出しました。

(列王記上)『21:7 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。』
 これは、「聖別されたパンは、祭司しか食べてはならない」との掟は、あるものの、ダビデが祭司からそのパンをもらって食べたと言う聖書の記事です。この掟を祭司は守らずに、ダビデたちの体がけがれていないことを確認して、渡したのです。


つまり、お腹がすいていても、食べてはならないとまでの掟は無いのです。また、祭司が安息日に祭司の仕事をしていて、休んでいないのは当たり前ですが、モーセ5書のなかには、安息日を守りなさいとしか書かれていません。基本、安息日にやってはいけないことのリストが口伝で伝わっておりますから、同じように祭司の働きは例外であったはずで、口伝の律法になっていたと思われます。そして、神殿で祭司が働いている以上に、ここでの弟子たちを含めたイエス様の働きは偉大だったのです。イエス様は、困っている人たちに恵みを施すのが目的であって、律法を守ることを目的に来られたわけではありません。ですから、やむなく律法を守れないことをとがめるのではなく、みを施したいのです。そて、イエス様は、安息日をも神様から任されているのです。ですから、律法通りに守って正しいかどうかよりも、まず先にその人を守ってあげる必要があるかどうかを考え、守れない律法のためにさらにその人を苦しめることは、正しくない。イエス様はそうおっしゃっているのです。