マタイ28:16-20

大宣教命令

2023年 49日 主日礼拝  

再出発への招き

聖書 マタイ28:1-10

 イースターおめでとうございます。今日はマタイによる福音書の復活の記事からみ言葉を取り次ぎます。ところで、イースターと呼ばれる復活祭ですが、その由来は今日の聖書にあります。十字架にかけられて死んだイエス様が、予告した通りに三日目に甦った、その奇跡を記念して守る祭りであります。ちょうど季節が春でありますので、春の祭りとのイメージでもあります。もともと、イースターと言う名前は、古代ゲルマン神話の「春の女神」Eoster(エオストレ)なのだそうです。今では、イースターはキリスト教の行事となっているので、「春の女神」の要素は、ありません。ただ、野兎が春の訪れに感謝して、女神に春色の卵をプレゼントしたとの伝説の影響は残っているようです。ちなみに、東の事をEastとよぶのは、この春の女神が東からやってくるからなんだそうです。


 さて、キリスト教のイースターの物語です。マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わった日曜の明け方早く、十字架で死んで三日目のイエス様の墓に来ました。イエス様に同行していた女性たちは、イエス様によって救われて、そこで信仰が与えられ、イエス様一行のために世話をしていました。イエス様は、女性たちにも男性の弟子たち同様に教えていましたから、彼女らも弟子と呼んでよいと思われます。女性の弟子たちは、イエス様の十字架の時にも、墓に遺体を納める時にもそばにいました。そのとき安息日が始まる日没が迫っていました。イエス様の体に油を塗る時間がなくて、仕方がなく墓の中に遺体を置いて、入り口を塞ぎます。ですから、安息日の次の日曜の朝に、葬りのために、彼女たちが墓にやって来たのです。

『28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。』


 ここには、注目したい事実があります。番兵たちが、イエス様の復活の証人となった事です。祭司長たちは、イエス様の墓を封印したうえに、番兵をつけていました。なぜならば、「イエスの弟子たちが、遺体を盗むのを防ぐ」ためです。(マタイ27:64)

 もともと、イエス様は十字架につけられて、「三日目に復活する」(マタイ20:19)と予告していました。そして、「予告通りに復活した」と宣伝されることを、祭司長たちは怖れたのです。だから、弟子たちが空になった墓を見せて「イエスは死者の中から復活した」と言い出さないよう、番兵を付けて見張りました。


 イエス様が納められた墓の入り口は、大きな円盤状の石を転がして蓋としていましたから、数人ががかりでなければ開けることが出来ません。さらに、番兵たちが見張っているわけです。だれも出入りしていないことは確かです。そこに、天使が現れて石を動かしたのです。天使は告げます。

『「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」』

天使は、女性たちに告げました。

「十字架につけられたイエスは復活なさった」と。

「だから見なさい。遺体がないでしょう」と言うわけです。

これは、イエス様ご自身が予告した十字架と復活が成就したとの宣言であります。「十字架と復活」は、神様の救いのご計画でした。ですから、イエス様は神様のご計画を知って、ゲッセマネの園でご自身の流す血についてこのように祈っていました。

『26:39 ~「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」』


 神様は、私たち人間を愛し、罪から救うために、私たちの罪の身代わりにイエス様を罪人として裁きました。そして、十字架につけ、死の中からよみがえらせたのです。イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架で死んで、死の中から復活しましたから、罪と死に打ち勝ったと言えます。イエス様は、私たちの罪を背負って死んでくださいました。その時から、イエス様を信じる私たちの罪は赦されています。そしてイエス様は今も生きて、私たちに永遠の命をもたらしてくださっているのです。イエス様の「十字架と復活」は、イエス様の起こした最大の奇跡です。神の子だからこそ、それを予告し、祈って、受け入れ、そして成就させることが出来たのです。これこそが、イエス様が神の子であるとの証であります。ですから、イエス様の十字架の死は、神の子の死であります。神様は、イエス様を人間の罪を贖う生贄としたのです。これが、私たちの罪が赦された「しるし」であります。そして、イエス様の復活によって私たちは、永遠の命に与ることが約束されているのです。


 さて、天使は、弟子たちへの伝言をしました。いったい男性の弟子たちは、何処に居るのでしょうか? イエスの十字架と墓地に立ち会ったのも、安息日が終わるやすぐに墓に来たのも、女性たちでした。その一方で、男性の弟子たちは、十字架の場面にも墓の場面にも一切出てきません。ペトロを始め弟子たちは、たとえ死んでもイエスから離れることなどないと断言しました。でも、そのすぐあとにイエス様が捕えられると、イエス様から離れ、そして逃げました。特に、ペトロは「イエスをしらない」と繰り返し否定してしまったのです。そして、現実的に自分たちが捕まる怖れがありました。そんな、弟子たちへの天使の伝言です。神様は、逃げてしまったそんな弟子たちをも見捨ててはいませんでした。天使は、女性たちに「イエスがよみがえられたこと」「ガリラヤに行けば会えること」を逃げた弟子たちに伝えようとしたのです。「急いで行って」「確かにあなたがたに伝えました」この天使の付け加えた言葉に、すぐにイエス様に会わせてあげたいことや、弟子たちみんなに伝えてほしい その神様の思いが込められています。十字架の時に逃げ出してしまった弟子たちですが、それでも神様は愛し続けている証拠であります。


 イエス様もそうです。女性たちが弟子たちに伝えようと急いでいた時、イエス様は婦人たちに出会い、こう言います。

『「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」』


 イエス様は十字架の時、弟子たちから裏切られました。それなのにです。イエス様は、この弟子たちを今も愛して、そして私の兄弟たちと呼んでいます。そして、「わたしに会うことになる」と言いました。これは、一人も抜けることなく、ガリラヤに来てもらうとの強い意志を示したものであります。イエス様は、弟子たちを導こうとしているのです。イエス様は、ご自身を捨てた弟子たちを赦しました。そして、イエス様は、弟子たちをもう一度伝道者として立てようと招いたのです。もう、弟子たちは逃げ出さないでしょう。そのように、イエス様が弟子たちを導くからです。弟子たちと共にいて下さるからです。

 イエス様は十字架で死んで復活して、私たちの罪を赦して下さいました。また、イエス様の復活によって、永遠の命がもたらされました。これらの恵みが与えられたのは、私たちがイエス様を信じたからです。すべては、神様の愛によってもたらされたのです。

 さて、イエス様は、弟子たちにガリラヤに行くよう、女性たちに告げます。ガリラヤはイエスの弟子としての出発の地でした。エルサレムの町ではなく、再出発の地としてガリラヤに弟子たちを集めます。

『28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。』

 この山は、何処の山なのかはわかりません。しかし、山上の垂訓をした山ではないかと考えて良いと思われます。イエス様は弟子たちが伝道を続けるために、同じ場所から再出発させたのです。実際、そこでイエス様に会うまで、11人の弟子たちは半信半疑でした。それでも、ガリラヤの山までやってきました。そして、復活したイエス様に会うことが出来たのです。イエス様は、信仰が強くない弟子たちに向かって、伝道するように命令をします。イエス様は、こうして再出発の機会を与えてくださいます。この弟子たちのように、何度イエス様を裏切っても、イエス様は赦して、導いて下さるのです。それは、何度死んでも、新しい命を下さることに似ています。イエス様は、罪の支配から私たちを解放し、日々私たちを新しく造り変えて下さるのです。 


 今、私たちは、復活したイエス様に出会うことができます。イエス様は、いつも私たちを赦し、そして用いるために、私たちを招いておられます。私たちは、イエス様のその招きに対して不十分な者です。与えられた役割を十分に成し遂げられるとは思えません。それでもイエス様は、その足りない分を補ってくださいますから、そして、できなくても赦してくださいますから、安心してその招きにこたえられます。イエス様は、あなたの再出発のためにあなたを招いています。そのイエス様に信頼して、今負っている重荷を下ろして、イエス様と共に歩む新しい命への招きを受け入れていきましょう。