イザヤ書9:1-6

大いなる光

1.光を見る

『ゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海(湖)沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた』

 ゼブルンとナフタリは、イスラエル北辺の地です。そこは、アッシリアが侵入して来ると、真っ先に蹂躙されました。ガリラヤの土地は歴史を通じて、虐殺、陵辱、略奪、恥辱を経験しました。この地を総称して『異邦人のガリラヤ』と呼びます。それは、もともとイスラエルでありながら、異邦人によって支配されていることが多かったからです。

預言者イザヤは『異邦人のガリラヤは光栄を受けた』と預言します。これは、闇の支配からの解放宣言と言えます。イエス様は、荒野で試みを受けた後、一度ガリラヤに行きました。福音宣教を、ガリラヤから始めるためにです。(マタイ4:12-16)このマタイの記事は、イザヤの預言が成就したことを主張するものです。イエス様がガリラヤを本拠地とし、復活後もガリラヤを目指したのは、単なる偶然ではなく、神様のご計画であったと言えます。

『彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ』この言葉は、光の到来によってもたらされる歓喜表現のようです。現代社会では、このような経験をすることはないと思いますが、略奪に次ぐ略奪、長く収穫の喜びさえも忘れていた者たちに(士師6:3-4)刈り入れの喜び、さらには、分捕られていた者の立場が逆転して、分捕りものを楽しむ時が来ると語っているわけです。


2.光の先にキリストを見る

『ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる』

 ひとりの男の子が生まれる。そして、その男の子は私たちが救われるために、十字架を背負う方となります。すでに、イザヤは預言していました。

『その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』

「不思議な助言者」 不思議という言葉を使うのは、言い表しがたいイザヤの感動を示しています。無限の神様のパワーを的確に表現する言葉はありません。不思議(=考えられない)と言う単純で再現のない言葉が相応しいのでしょう。

「永遠の父」永遠と言う言葉は、創造者である神様にだけに相応しいと言えます。天地は過ぎ去り、万物が流転する中で、神様のみ永遠です。

「平和の君」 争いは誰でも始められるが、平和を作り出すのは大変困難です。

「実に、キリストは私たちの平和です」(エペソ2:14、マタイ5:8)

 後に、イエス様に親しく仕えた弟子のヨハネは『~わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)と証言しました。ペトロは、自分の弟子たちに『1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。』(Ⅰペトロ1:8)と書き送っています。私たちも「主を見たことがないのに」愛し、そして信じている意味で、ペトロのいうように喜びで満ちているのです。

・章立てが、ずれています。本来9:1となるところが8章に・・・正しくは、9:1→9:2 9:6→9:7

・イエス様の時代にイスラエル12部族で残っていたのは、ユダとベンジャミンです。

・ガリラヤは、ゼブルンとナフタリの土地に相当しますが、早くから異邦人(アッシリア)の土地となっていました。ガリラヤは、エジプトとヨーロッパ、中東を結ぶ街道の町であり、また肥沃な土地です。

・ミディアンの日:士師ギデオンがミディアンの七年間の支配を破った日になぞらえて、大軍ではなく、主にあって強い一握りの戦士たちを率いて、戦った様子を記念しています(士師記7章)。

◆ガリラヤで伝道を始める(マタイ)

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。4:15 『ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』

4:17 そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。