ルカ16:1-18

 不正な管理人

 

 

 ファリサイ派の人々への教えです。主人は神様で、不正を働いて富を蓄えていた管理人は、ファリサイ派の人々です。そして、ファリサイ派の人々は、主人である神様の心にかなうことをするこの管理人の話をあざ笑いました。たぶん、神様と富どちらも愛しているつもりだったのでしょう。イエス様は、離婚と姦淫について、唐突に話します。マラキ書に見るように、神様は離婚を憎んでいます。なのに、ファリサイ派の人々の離婚に対する指導は、姦淫目的の離婚を認めるものでした。

(例:ヘロデ・アンティパスとヘロデア:異母兄弟の娘/結婚するためにナバディア王国の王の娘と離婚)


つまり、イエス様は「ファリサイ派の人々は、律法を守っていると誇らしげだけれども、率先して律法に違反している」。だから、神様に仕えていない。神様と真逆な富(マモン)に仕えているとの指摘です。


コロス:230ℓ バトス:23リットル


1.不正な管理人

 当時の金持ちは、町に住んで、いくつか所有する農園を管理人に任せています。こうすることで、管理人は不正をしようとしたら、できてしまいます。しかし、不正がばれたら、その仕事を奪われるのは間違いないでしょう。すると、寝泊まりする場所も奪われてしまいます。この譬えの管理人は、主人からの負債がある人を探して、その負債を割引きます。たぶん、その割り引いた分は主人に弁済するのでしょう。不正を働いた結果の富は、このように良いことに使われたわけです。ですからイエス様は、「不正に得た富でも、友達を作るために使うべきだ。」と言います。そして、お金が無くなった時に、永遠の住まいに招かれると言うのです。実際、ファリサイ派の人々は不正を働いた結果、富を持っていました。そのまま不正の富を持っているよりも、その富を使って友達を作る方が良い。不正をした事実は変わりませんが、その結果の富が無くなった時、神様はそのファリサイ派の人を天国に招くのです。

 

『16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。』

この「ごく小さな事」とは富の事を指しています。「大きな事」とは神様に従うことです。決して、管理人がやったことは褒められることではありません。しかし、富に対してすら忠実でなければ、何も任せることが出来ないのです。だけど富に仕えることを誉めたわけではありません。なぜならば、富に仕えるならば、もっともっと大きな 「神様に仕えること」とさかさまの意味になるからです。「神様に仕える」このことに忠実であるならば、富には仕えることが出来ないのです。だから、イエス様は、「あなたがたは、富に仕えているので、神様に仕えていない」とファリサイ派の人々を非難したことになります。


2.律法と神の国

 ファリサイ派の人々は、あざ笑いました。彼らは、不正で富を得ていましたが、それを手放す気は毛頭ありません。神様にこの不正を告白し、賠償しようとのイエス様の譬えを拒否したのです。また、富に確かに仕えている彼らは、神様にも仕えているとの思いがあります。なぜなら、律法を守り、そして守らせて、正しくユダヤの民を導いてきたと自負するからです。

 それを見て取ったイエス様は、このように言います。

・あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神様はあなたたちの不信仰をご存じである。

・人に尊ばれるもの(尊ばれたい者)は、神様は嫌悪する。

・モーセ五書と預言者の書は、ヨハネの時まで語られ、それ以来誰もが福音に入ろうとしている。

・しかし、ファリサイ派の人々は、律法を曲げているので、福音に入れない。


そして、その実例を示すことで、意味が明確になりました。 律法の解釈をもって、彼らは尊敬されているが、実は正しくない解釈を行っています。そして神様はその彼らの心を御存知であり、尊ばれたがっていることを大変嫌っています。そして、ファリサイ派に人々は、律法を解釈する人であるにもかかわらず、その神様の御旨でさだめられた律法を曲げているのです。

『16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」』


 姦通するための離縁をファリサイ派の人々は認めました。また、姦通のために離縁された女を妻とすることもそうです。これらは、マラキ書にある通り、神様の憎むところであります。