マタイ4:1-11

復活の備え

2021年 2月 21日 主日礼拝

『復活の備え』

聖書 マタイによる福音書 4:1-11 

先週の水曜日(灰の水曜日)から、四旬節(レント)になりました。四旬節とはイースターまで40日の意味です。この40日の中には、日曜日は数えられていませんので、7週間の42日+水木金土の4日=46日前からイースター直前までが、四旬節となります。

 聖書の中では、40は特別な数字です。イエス様は今日の聖書の箇所で、40日間荒野で断食しましたが、他にも、例があります。旧約聖書では、モーセは民を率いて40年荒野を彷徨いました。また、ヨナはニネヴェの人々に40日以内に改心しなければ街が滅びると預言しました。このように、40日は備える期間として代表的な数字になっています。

 初代教会では「徹夜でイースターを迎える礼拝」をおこない、その中でバプテスマを授けたようです。その準備のためにイースターの40時間前からバプテスマを受ける人々が断食をして備えたと言われています。その期間が、やがては6日間になり、7週間になったそうです。4世紀になると、バプテスマが爆発的に増えた(禁教で無くなった)関係で、バプテスマを受ける人だけではなく、全信徒に

対してもイースター前の節制の期間を7週間と決めたそうです。

 バプテストでは、受難週に断食をするとか、そこまですると大変なので、「甘いもの断ち」をしながら準備する習慣はあります。しかし、7週間に及んで、節制をする習慣はありません。イースターは、イエス様が私たちの罪を贖うために十字架におかかりになり、三日後に復活されたことを記念するものです。皆さんも その受難を覚えて、お祈りをしながらイースターに備えてください。

 

 さて、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたイエス様は、霊の導きによって40日間断食した後に、悪魔からの誘惑を受けます。40日間の断食は、イエス様がこれから伝道に出る準備だったという事ですが、悪魔からの誘惑とはどういうことなのでしょう?・・・ 神様は、イエス様が伝道を始める前に、断食と備えの時を準備しました。ですから、そのイエス様を、神様が試験をした  と考えると良いのでしょう。結果イエス様は悪魔の誘惑に負けませんでした。そして、天使たちはイエス様に仕えます。イエス様はこうして伝道に出るわけです。

 

 今日の聖書ところでイエス様が言った場所をたどりますと、ヨルダン川から、荒野、エルサレム、非常に高い山とひとっ飛びに場所を移動します。

ヨルダン川周辺でバプテスマを受け、その後一気にユダヤの荒野に舞台が飛びます。ユダヤの荒野とは、死海の西側の砂漠地帯にあるユダヤ砂漠だと思われます。その1回目の誘惑の後、悪魔はエルサレムの神殿の上空にイエス様を連れて行きます。そして3か所目は、非常に高い山とありますが、ヘルモン山(2814m レべノン、シリア、イスラエル国境地帯)のことでしょうか? その次の箇所ではナザレを経由して、ガリラヤ湖の周辺に戻ります。荒野というのは、砂漠を指すほかに、「孤独な場所」を指しています。誰に相談もできない、そこにただ一人いる状態を指して、荒野と表現したのかもしれません。エルサレム神殿の上空も、ヘルモン山も、そのように誰もいない場所なので、だれに相談することも出来ません。そういう、孤独なところにイエス様は連れてこられて、悪魔の誘惑と戦ったのです。

 

最初の戦いは、空腹でした。悪魔は、「石をパンに変える」よう、イエス様を誘惑します。この誘惑には、このような意味があります。「本当に神の子ならば、その力を自身のお腹を満たすために使ったらどうなのか?」。という問いは、かなりひどい誘惑です。権威のある者が、自身の利益だけのためにその力を使ったならば、その権威は一瞬にして崩れ落ちたでしょう。悪魔の誘惑は、イエス様の権威が失われることを狙っているのです。もし、イエス様が自身のために石をパンに変えて、それを食べていたのならば、神様の試験に失敗したことでしょう。

 

イエス様は、この誘惑には乗らずに、モーセの言葉を使って答えます。その答えは、イスラエルの民がエジプトから脱出した出来事の中、神様から十戒を頂いたときの言葉でした。

申命記『8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』

 これは、荒野に出たイスラエルの民が、モーセに「食べ物」の不満をぶつけたのですね。その時に、神様がマナを降らせたと言う出来事から来ています。この時、人々は、神様に信頼することを忘れ、パンを求めました。生きていくためには、神様のみ言葉とパンの両方が必要なのに、パンだけを求めてしまったのです。

イエス様は、モーセが導いた人々と同じ「人の子」として生まれながら、その人々とは違っていました。神様に信頼をしていたのです。イエス様は、パンだけを求めることも、石をパンに変えることもなさりませんでした。

 すると、悪魔はエルサレムの神殿の上空にイエス様を連れて行きます。「高いところから飛び降りても神様は救ってくれるだろう」と、悪魔はイエス様を誘惑します。イエス様は神様を強く信頼していました、だから悪魔は、その信頼を利用して誘惑したのです。しかし、イエス様は、「神を試してはならない」と答えました。悪魔が使ったみ言葉は、次のものでした。

詩編『91:11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。』

この詩編は、「神は私の避けどころ」と賛美している一部ですが、賛美の一部を切り取って、「高いところから飛び降りても神様は救ってくれるだろう」と解釈をするのは、かなり無理があります。しかし、悪魔は、「イエス様の神様への信頼」を試したかったのです。イエス様は、その答えとして、モーセが語った言葉を引用しました。

申命記『6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。』


 マサと言う場所で何があったかは、出エジプト記に書かれています。:出エジプト『17:2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」~17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。』

イエス様は、「果たして、主は我々の間におられるのだろうか」と言って、神様を試したその出来事を通して、悪魔に答えたのです。

申命記『6;16~あなたの神である主を試してはならない』

もちろん、ここでイエス様が神様を試すために飛び降りたならば、イエス様のみ言葉にこれほどの権威は無かったのだと思われます。またまた、悪魔の誘惑はイエス様の前に敗れてしまいます。

 そして、悪魔はイエス様を高い山に連れて行きます。そして、究極の誘惑をするのです。悪魔の本領と言いましょうか、人間の持つ欲に囁きかけるわけです。悪魔は、神様からイエス様を試すように言われてここに来ていますが、悪魔は試すことをやめて、本気でイエス様に罪を犯させようとしているのです。

そして、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せます。その悪魔のいう事は マタイ『4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」』でした。

普通の人間であれば、心が震えながらも、悪魔のいう事を聞いてしまったでしょう。しかし、イエス様は悪魔の言葉に対して、「退け、サタン」と激しく怒ります。イエス様は 3度目も同じ申命記からモーセの言葉を使いました。

申命記『6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。6:14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。』

 これは、モーセがシナイ山に行って留守にしている間、イスラエルの民が、金の子牛を鋳て、礼拝した出来事を指しています。こうして、イスラエルの民は何度も何度も罪を犯してきました。しかし、神様は、そのイスラエルの民を見捨てませんでした。モーセを通して、無条件にイスラエルの民と契約したのです。モーセはその契約である十戒をイスラエルの人々に伝えるとき、申命記『6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。6:14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。』と、指導したのでした。

 

 イエス様は、モーセを通じていただいた神様の契約を完成させるためにやってきました。そして、イエス様はイスラエルの民がこれまで、神様への信頼をわすれ、神様を試し、そして神様以外のものを礼拝すると言う罪を重ねてきましたが、イエス様はその悪魔の誘惑を乗り越え、神様の試験に合格したのです。こうして、悪魔はあきらめて離れて行って、代わりに「天使たちが来てイエス様に仕えた」と書かれています。このように、マタイによる福音書の著者は、イエス様が伝道に出られる前にすでに全き人、罪のない人であったことを書き残しました。そして、イエス様は、モーセを通じていただいた契約を完成させに来たことを明示したのです。

 今年のイースターは、4月4日です。キリスト教の年間行事では、イエス様の復活を祝う最も重要な日ですが、日本ではなぜかクリスマスが盛んなのに、イースターを知っている人は少ないです。イースターを知っていたとしたら、教会学校に通っていた人くらいかもしれません。教会学校に出たことがあれば、ゆで卵を使ってイースターエッグを作ったり、そのイースターエッグを隠してみんなで探したりという思い出があると思います。また、墓地を持っている教会では、朝、日の出のころにイエス様の復活を祝って墓地で礼拝することもできます。それから、キリスト教は「食卓の宗教」とも呼ばれるように、愛餐会があります。イースターが最もごちそうが並ぶときのはずです。しかし、残念ながら昨年と同様に、教会での行事は困難と思われます。出来ることと言ったら、受難週の一週間、朝のお祈りをするとか、イースターまでの7週間の過ごし方を変える事だと思います。それぞれ、自由に決めて良いですが、好きなものを断つことでイエス様の受難を思い浮かべるのも良いでしょう。イエス様の復活の喜びは、イエス様の受難を思い、祈ることによって、さらに高められます。そして、その喜びを周りの人々にお知らせしましょう。まず、私たちがイエス様の復活を心から喜ぶことから始めたいです。これから、イースターまでの間、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様のことを覚えて、祈ってまいりましょう。私たちは、イエス様の十字架があってこそ、救われたのです。