Ⅰテサロニケ2:1-8

 喜んでいただくため

2023年 1月 1日 主日礼拝

喜んでいただくため』   

聖書 テサロニケの信徒への手紙一3:14-16 


あけましておめでとうございます。先週はクリスマス礼拝を守りました。日本では、クリスマスが終わるとさっさとクリスマスツリーをたたんで、門松等に代えてしまいますが、本来クリスマスの期間はと言うと、12月25日の四つ前の日曜日からアドベントが始まって、1月6日の公現節、これは3人の博士が御子を訪ねてきた日 までとなっています。ですから、クリスマス飾りは今年であれば1月7日まで、飾りっぱなしとなります。ということで、今年の教会のクリスマス飾りは、8日に片付けましょう。

 

 今年最初の宣教は、テサロニケの信徒への手紙一から選びました。この手紙は、新約聖書のなかでも最も早い時期AD50-51ごろにパウロによって書かれたとされています。その時、パウロは第二回伝道旅行でギリシャの港町であるコリントで伝道をしていました。パウロの第二回伝道旅行では、シリアのアンテオケから出て、まっすぐ西のアジア州に入ることを避けて北上し、海を渡ってマケドニア州のフィリピに行きます。フィリピでは、女占い師にまとわりつかれたため、その女についてる霊を追い出してします。すると、その女占い師を使って儲けていた人から訴えられて投獄されてしまいます。そこから逃れることができたパウロは、テサロニケに行きました。テサロニケは、現在のギリシャの北部にあるマケドニア州の第一の都市です。当然、マケドニアに伝道するならば目標となる街です。パウロは、その大都市テサロニケで伝道を始めました。しかし、そこでパウロはユダヤ人の暴徒に襲われ、近郊のベレヤの町に逃げ出すことになります。それでも、収まらなくてパウロは同行しているシラスとテモテを残して、アテネに旅立たざるを得ませんでした。

 テサロニケでの暴動の理由は、このように使徒言行録に書かれています。

使徒『17:7~彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」17:8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。』

つまり、パウロの人気に妬んだユダヤ人たちが、「パウロの伝道活動」を政治的な活動だとして訴えて、パウロを追い出すよう当局を動かしたわけです。

ですから、パウロがテサロニケで伝道した期間は、安息日3回(使徒17:2)分だけであり、充分な活動はできなかったわけです。そういうことで、シラスとテモテをテサロニケに残して、パウロは次の伝道地アテネに向かいました。しかし、アテネでは散々でした。パウロの語る新しい神にアテネの人々は最初だけは興味を示しましたが、パウロが「死者の復活」を語ると、もう話を聞いてもらえなかったのです。それでも、何人かの人々はパウロの伝道を通じてイエス様を信じました。結局、パウロは新たな伝道の地を捜し、ようやくコリントに落ち着くことになります。フィリピやテサロニケにいたのがAD49年でコリントに入ったのがAD51年ですから、伝道する場を求めて他の町にも行ったことが考えられますし、アテネで頑張っていたのかもわかりません。その間シラスとテモテはテサロニケの教会を指導して、それなりの成果があったので、パウロとコリントで合流しました。

 パウロはコリントに1年半いました。その間にテサロニケには、2回手紙を出しています。やはり、テサロニケには指導者が必要だったのでしょう。パウロは、ほとんど直接的な指導ができませんでしたが、シラスとテモテを通じて、テサロニケの教会の状況をよく理解していましたから、励ましと指導のために手紙を書いているわけです。もちろん、パウロ自身がテサロニケに行きたいと願っていました。しかし、コリントの教会もありますし、エルサレムの教会に献金を携えて上りたいとの事情もあって、実現できなかったのです。

 パウロはこの手紙の中でテサロニケの教会とのこれまでのかかわりを振り返りながら、テサロニケに行ってイエス様の福音を伝えたことが決して無駄ではなかったことを回想しています。なぜなら、テサロニケの教会は、パウロたちにとっての「誉れであり、喜び」(2:20)となったからです。 

また、『フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。』

と、書いている通り、パウロはフィリピでいわれのない罪で投獄されました。それでもパウロは、かえって神様に勇気づけられながら福音を語りました。新共同訳では「語った」とありますが、「大胆に語る」と訳した方がふさわしい言葉が使われています。(パッレーシアゾマイ【παρρησιαζομαi】:大胆に語る)つまり、パウロが語ったその背後に、語るべき言葉は神様から与えられ、それをパウロは信仰をもって大胆に語ったのだと言えます。ですからその大胆さは、暴動が起き、迫害を受けている間も、保たれたのです。しかしながら、困ったことに、パウロが国家への反逆者として訴えられてしまうと、テサロニケの信徒たちのためにも、パウロはこの町を脱出するしたのです。そういった、身に危険を感じる中で、ぎりぎりまでパウロは伝道しました。そして、

『人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。』

とありますように、決してパウロは伝道相手であるテサロニケの人に喜ばれる言葉を選びませんでした。パウロは、神様に喜ばれるように、人々の耳に心地よいことを話すのではなく、神様を喜ばせたのであります。神様は、すべてをご存知ですから、そして、すべてに対して最善を備えてくださいます。ですから、パウロはこの神様への信仰に従って、神様が喜ぶことを選んだのでした。パウロ自身がそのことをこの手紙に書いています。また、

『相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。』

とあります。パウロは、「信徒を獲得するために、お世辞を使う」こともしませんでしたし、「信徒からかすめ取る」事もしませんでした。実際に、お世辞を使わなかったことは、テサロニケの信徒が知っています。また、パウロは、「自分のためにお金を集めたことがない」ことは神様が御存知であります。実際にテサロニケにいたとき、パウロを支援していたのはフィリピの教会でありました。(フィリピ『4:16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。』)パウロは、自身の生活のための必要でさえ、テサロニケの信徒に求めなかったのです。それだけではありません。パウロは、名誉も求めませんでした。パウロは、このように言います。

『2:7 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。』

パウロには、栄光はいらなかったのです。パウロはキリストの使徒として福音を伝える事、そのことこそが神様から与えられた「権威」だったのです。そして、その「権威」は神様の栄光の下にあります。パウロは、その役割を担う「権威」以上の名誉を望まなかったのです。

パウロ自身は、「権威」ある者との態度ではなく、幼子のように頭を低くし、そして子供をもつ母親のようにテサロニケの信徒をいとおしく思ったと、次のように書いています。口語訳が原語のままに正しく訳しているので、その部分を読んでみます。(新共同訳は、6節の権威に関する文章を7節の一部として訳しているので、パウロが幼子の立場のように読めてしまう。しかし、8節でのパウロの立場は明らかに母親である。)

『 7むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。 8このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。』

 教会が建て上げられていくときに、パウロのようにその働きに召し出された者たちが、まだ幼子のような教会に「母親のように愛し」、「父親のように権威を持つ」ことが求められます。しかし、現実はそう簡単なことではないことは言うまでもありません。そして、信徒側に求められていることがあります。テサロニケの教会のようになることであります。すでに説明しましたように、テサロニケの教会では明らかさまな迫害を受けました。それが続いています。その困難の中にあっても、イエス様の福音を宣べ伝え続けていたわけです。もちろん、直接的には、パウロではなくシラスやテモテによって導かれたのですが、その伝道者の権威を認めたのは、テサロニケの信徒でした。

 当時は、まだ新約聖書は存在しません。ですから、テサロニケの教会には神様から遣わされた使徒パウロの言葉だけがキリスト教の「教え」でした。そして、その「教え」を書いたこの手紙が、新約聖書で一番最初にできたものであります。そういう時代に、テサロニケの人々はパウロを使徒と認めて、神様の言葉として信じて受け入れたのです。このとき、福音の伝道が新たな歩みを始めたのです。このことは、パウロが使徒としての使命を全うするうえで、重要な出来事であります。一方で、パウロがこの手紙を書いているコリントの教会では、テサロニケのようにはいきませんでした。パウロを使徒として素直に認めてくれなかったために、パウロはとても苦労したようです。神様の言葉はすべての土台です。したがって、パウロの取り次ぐ言葉が神様の言葉として受け入れらなければ、パウロの語る福音を基礎とした教会は建つことはできません。このことは今日においても同様です。福音を取り次ぐ者も聞く者も、イエス様の言葉をそしてパウロの信仰を受け入れる必要があるのです。決して心地よい言葉になびくのではなく、神様の御意思に従って神様の喜ぶことを選んでいた。そのように、パウロは証しました。

 

 パウロはテサロニケの教会とのこれまでのかかわりを振り返りながら、テサロニケで神様の福音を伝えたことが決して無駄ではなかったと、パウロの伝道のことを回想しています。2週間余りの日程で、やむなく迫害から逃れるためにテサロニケをあとにしましたが、行って良かったという思いが伝わってきます。なぜなら、テサロニケの教会は、パウロたちにとっての「誉れであり、喜び」となったからです。実際にパウロの手紙には、このように書かれました。

『2:19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。

2:20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。』

 

 テサロニケは、今のギリシャでもアテネに次ぐ第二の都市です。当然異邦人の町ですから、異邦人の信徒の方が多かったわけです。そういった、今までのユダヤ人を中心とした伝道との違いを克服し、ユダヤ人による迫害にあいながらも、教会が生まれた事、そして続いていることは、誇るべきことです。しかしこれは、パウロの栄光を示すものではありません。イエスキリストの栄光であり、パウロは、その福音を語る権威をイエス様から頂いていました。そして、その権威は、テサロニケの教会に受け入れられていたのです。ですからパウロには、これ以上の教会はなかったのです。伝道をするうえで、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるその言葉を受け入れてもらうことは、必要不可欠の事です。一方で、聞く方は耳に心地よい言葉を聞きたいものです。パウロは、耳に心地よい言葉ではなく、神様に喜んでいただくことを選びました。そして、テサロニケの信徒も神様に喜んでいただくことを選びました。パウロは、このようなテサロニケの教会を「誉れであり、喜びなのです」と、困難の中にありながら成長を遂げている教会を励ましました。このテサロニケの教会のように、私たちも神様の喜ぶことを目指して、今日から始まる2023年も喜んで教会を盛り立てていきましょう。そのために、祈ってまいりましょう。