ルカ8:16-18

 ともし火をともして

 

 

1.ともし火は、神様の言葉 

 ともし火をともすことを、イエス様は「神様の言葉を聞くこと」にたとえました。そもそも、ともし火の目的は、生活の場を照らして多くのものが見えるようにすることです。ですから、ともし火を器で覆い隠したり、燭台の下に置いたりすることは、普通しません。部屋にいる人にとって、それで充分であったとしても、部屋の外から入って来る人の足元を照らすには、光が遮られないように燭台の上にともし火を置きます。

 このともし火が神様の言葉だとしたら、その言葉を遮る者は誰で、どのように遮っているのでしょうか?もし、み言葉を遮っているならば、その人は礼拝の時も最前列で聞いているのでしょう。そして、その背中はすでに真っ暗で、光が当たっていません。み言葉を聞くだけで、自分でその言葉を周囲に配っていないのです。配り方は、み言葉そのものを語る事と、み言葉を実践することです。そうすれば、み言葉を配った人自身がともし火となります。また、ともし火は部屋の高いところにあるべきです。教会や集会が部屋であるならば、訪ねる人々の目印となるように、遠くからともし火が見えてほしいからです。そして、教会の入口に入ってくる人の足元をてらしたいからです。

 神様の言葉を行う。一言で言ってしまうこのことは、なかなかハードルが高いですね。まず、神様の言葉は、聖書ですが、この分厚い本をどれだけ読み込んでいるでしょうか?だれも自信がないと思います。そして、礼拝での宣教をどれだけ理解できているでしょうか?また、先週の宣教のことを憶えているでしょうか? このように言われると、だれでも困ると思います。

 そこで、最も重要な掟が2つあるので、その点だけでお話ししたいと思います。

ルカ『10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』

 「神様を愛しなさい」。「隣人を愛しなさい」。がその重要な掟です。

 神を愛するということは、まず第一に礼拝を守るということです。また、人を愛するということは、誰にでも隣にいてあげて寄り添うことです。ですから、神様の言葉を聞くこととは、「礼拝を守って神様に仕えながら、隣人に仕えること」となります。み言葉を受け取る事、そして隣人にそのみ言葉を配る(伝える、み言葉を行う)ことによって、世界中にともし火が広がるのです。

2.ともし火に気が付く

『8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。』


 さて、神様の言葉を行う人は、「今から神様の言葉を実行に移します」とは、宣言せずに行動に移ります。むしろ、黙って神様の言葉を行うでしょう。なぜなら、「神様を愛し」「隣人を自分のように愛し」ているならば、神様が報われることに信頼して人からの報いを望まないので、人に知らせる必要がないからです。

 隠したつもりも秘めたつもりもないまま、「神様の言葉を実行する」と人に知らせなかったとします。それでも、いずれは公になります。なぜならば、その神の言葉を実行している人はともし火であるからです。そのともし火に、いずれ誰かが気が付くことでしょう。

3.神様の言葉を聞く

『8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」』

「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と、イエス様は言われました。まずは、神様の言葉を聞かないと、神様の言葉を伝えることも、実行することも不可能になります。そして、聞き方に注意を払う必要があります。とは言いながら、私たちには「神様の言葉」を正しく聞き取る能力はないのです。そもそも「神様の愛」と同じレベルの愛など私たちは持ち合わせていません。だから、神様から愛を頂くしかないのです。この事実は素晴らしいことです。自分の中には愛が無いので、神様に祈って愛を頂けばよいのです。そして、自分に愛などないとの前提に立つ謙虚さによって、力む必要もなくなります。神様の言葉は、そのような立ち位置で聞くとよいです。

 ですから、自分自身には愛も能力も足りないことを認めること、そして、自分の力で「神様の言葉」を実行しようとしない事が大事です。自分の力や努力に頼って、神様に頼らないのは、良くないことです。それでは、自分自身のことを偶像礼拝しているのと似ていて、神様の言葉は遮られてしまいます。神様の霊が働くことに信頼してその導きに委ねること、これこそ望ましい聞き方だと言えます。決して、自分の言葉を優先させたり、自分の知恵に頼ったりしてはいけません。また、「神様の言葉」を実行できなかったと落ち込んだり、非難したりしてはいけません。そのような聞き方をする人は、「神様の言葉」は、自分に入ってくることを拒んだり、実行する条件を決めつけたりしているのです。

 そして、聞き方を身に着けている者は、神様の言葉をよりたくさんいただきます。逆に、聞き方を身に着けていない者は、自分の中で「神様の言葉」を自分の言葉に変換してしまいますから、そこにあった神様の言葉は、無くなっていくでしょう。また、それが行う段階になってくると、「神様の言葉」をたくさんいただいた人は、聖霊の働きによって「神様の言葉」を行います。