エフェソ1:3-14

ほめたたえられますように


 エフェソの信徒への手紙は、パウロが獄中で書いた書簡とされています。ちょうどコロサイの信徒への手紙と同じころに書かれていて、内容も似ているところが多いです。エフェソの信徒への手紙は、「手紙」というよりも、「信仰者同士の結びつき」とか「教会とは何か」といった内容です。この手紙の中心は、キリストがすべての人に神様への道を開いた、という考えです。

1.神の恵み

エフェソ「6:20わたしは福音の使者として鎖につながれています」と、パウロはこの手紙で自己紹介しています。パウロは牢獄の中にいたからです。それが、ローマでのことなのか、カイザリアなのかは、不明です。普通、牢獄に入れられたら不自由なのですが、パウロはカイザリアでは比較的自由注1にしていました

し、ローマでも鎖につながれて(使徒28:20)いましたが、同様に自由注2でした。そういう意味で、友人と会ったり、宣教をしたり、手紙を書いたりはできたわけです。これは、パウロの持病のために世話を焼かせなければならなかった為なのかもしれません。かえって、そのことがよい伝道の機会となったのです。

注1:使徒『28:16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。』

  注2:(使徒『24:23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。』)

パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と、神への賛美を求めています。 この手紙の冒頭でも、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、教会への「神の祝福」を祈っています。 「神の祝福」は、人間の業ではありません。パウロは、「イエス・キリストによって、私たちを神の子たちにしようと、前もってお定めになった」と言います。 私たちは、どうしようもなく罪の中にあって、死ぬべきはずの者です。それなのに、神様が前もって定められた通りに、ありのままの姿で「神の子たち」として選ばれました。神様は私たちを受け入れているのです。そして、その罪が贖われましたから、私たちは死ぬことのない者になったのです。私たちは、神の子たちとなるような罪のないものではありませんが、神様の御心によって、信仰をもつことによって、罪が贖われたのだと、パウロは教えます。つまり、私たちは、父なる神様のご計画によって、イエス・キリストを通してあらかじめ選ばれ、集められた者です。この一方的な神様の愛のうちに召し集められたのが、教会に集う群れなのです。この群れこそが、教会です。神様が私たちを教会に集めたのは、「神様をたたえる」ためなのです。父なる神様の栄光をたたえる務め、神様を賛美する務めが、私たち教会の群れに託されているのです。

 教会は、エクレシアという言葉で言い表されますが、「呼び出された者の集まり、召し出された者の集まり」という意味です。その召し出された者たちは、神様に向って栄光を賛美し、仕え、ささげ、祈るために選ばれて集められたのです。一方、反対の方向は宣教です。すべての人々に、神様の御心、神様の業を伝えるためにイエス・キリストの名のもとに集められたのです。私たちの言う「賛美と宣教」とは、神様への応答と神様の言葉であり、一体のものなのです。ですから、私たちが本当に神様のみ前に出て、み言葉の恵みに満たされ、感謝と喜びに溢れ、心から賛美をささげていることこそ本当の礼拝なのです。そのために、「神は恵みをわたしたちのうえにあふれさせて」くださり、「すべての知恵と理解とを与えて」くださった。そして、神様は「秘められた計画をわたしたちに知らせて」くださったとパウロは言います。パウロの言う「秘められた計画」とは、頭(かしら)であるイエス・キリストのもとに一つにまとまることです。それは「神の栄光をたたえるため」です。私たちは選ばれて、聖霊から「神の国を受け継ぐための保証」の証印まで押さました。私たちのすべきことは、神様の恵みを待ち望んでいる人々の所に遣わされていくことです。 自分たちと同じように、イエス・キリストとつながるようにと、イエス・キリストの福音を伝えることです。 自分たちの姿がどのようなものであったとしても、神様によってそのままで用いられます。パウロはそのようにはっきりと語っています。 神様の恵みに対する私たちの感謝と喜びそのものが、福音として周りの人々に届けられるのです。そのために、私たちは召し出されて集められたのです。ですから、私たちのささげる礼拝は、まだ神様を知らない人への伝道でもあります。そうした人々に福音を伝えるために、私たちは礼拝をささげているのです。ですから、救われた喜び、祝福の恵みにつき動かされてささげる賛美と祈り、その礼拝こそ遣わされていく宣教となっていきます。

2.証印

 証印とは、英語で言うseal(シール)です。密封するとの意味もありますが、印鑑のことをさします。また、蝋を溶かして、誰も明けていない「しるし」とする封印用の印もあります。いずれも、その「しるし」の持ち主が、そこに書かれていることを保証したり、自分が密封して、誰にも開封されないこと(=誰も明けてはいけないこと)を保証するものです。

 罪に生きている人々は、罪の奴隷でありますから、聖霊の証印は与えられません。そして、イエス様を信じる者は、もはや罪の奴隷ではありません。キリストに従う、キリストの奴隷となります。牧場の牛の焼き印をご存じですか?牛に直接字を書いても消えるので、牛の持ち主は誰の牛かわかるように焼き印を押します。同じように、私たちは「神の子たち」であることが判別できるように、イエス様を信じたその時から、額に「焼き印」が押されるのです。そして、もう消えることはありません。一生、イエス様に従って生きていくのです。この「しるし」は、持ち物として財産権を主張するためのものではありません。「この者の罪を赦した」との証明書であり、「私を保護し導く」との誓約書なのであります。