Ⅰヨハネ2:1-17

イエスが歩まれた様に 

  

1.弁護者

弁護者とはパラクレイトス(παράκλητος:カウンセラー、ヘルパー)の訳で、近くから(παρά)判断を行う法律的助言者(κλητος)という意味合いです。日本語では、弁護人という呼び方がふさわしいのだと思います。つまり、私たちが罪を犯したことに関して、イエス様は弁護してくださるからです。

2.神の掟

 罪とは、神様に対しての罪ですから、神の掟を破ることを指して「罪を犯す」という言葉が使われています。ヨハネの弟子たちに、神の掟を守るように、そしてもし掟を破ったとしても、神様のもとに弁護者であり、正しい方である、イエス・キリストが味方になってくださいます。イエス様こそ、わたしたちの罪のために弁護してくれるばかりでなく、全世界の罪を償うために、いけにえになっている方でもあるのです。

わたしたちは、神の掟を守ることによって、神様をだんだん知って分かって来ます。しかし、 「神様を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者です。神の掟を守らない者は、「神様を知る」機会がないからです。ですから、神の掟を守らない者には、神様の真理は入ってくることが出来ません。 しかし、神の言葉を守るなら、神様を知ったその人の内には神の愛が入ってきます。このように、神の掟を守っているわたしたちが神の内にいます。ですから、「 神の内にいつもいる」と言う人は、イエス様が歩まれたように自らも歩まなければなりません。イエス様こそ罪のない方であり、私たちが見習うべきお方であり、そして私たちが罪を犯したときにも弁護してくださり、そして私たちの罪を贖ってくださる方なのです。

3.新しい掟 

ヨハネが弟子たちに書いているのは、「新しい掟」のこと、つまり「イエス様の掟」なのですが、ヨハネは『新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。』と主張します。なぜならば、ヨハネが教えようしている「新しい掟」は、旧約聖書にある「古い掟」を「新しい掟」として書いているものだからです。ですから、弟子たちが聖書を教わって知っていることが「新しい掟」なのです。

イエス様が天から降って来られて、闇が去りました。既にまことの光が輝いていますから、「神の掟」はもはや「新しい掟」つまりイエス様の掟となっているからです。ですから、 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。そして同じことですが、「神様を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者です。

また一方で、 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。それと同じように、神の掟を守る者には、神様の真理が入ってきます。 しかし、神の言葉を守らないなら、神様を知らないその人の内には神の愛が入りません。

わたしが、あなたがた子供たちに「新しい掟」を書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからです。また、わたしが、あなた方父たちに「新しい掟」を書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからです。そして、私があなたがた若者たちに「新しい掟」を書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

子供たちは、父なる神様を知っていて、父たちは、初めから存在なさる方を知っています。そして、若者たちは強く、神の言葉が内にいつもあり、悪い者に打ち勝ったから、私は「新しい掟」を書いています。もし、あなた方のだれかが 世も世にあるものも愛する人がいれば、父なる神様への愛はその人の内にありません。 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、父なる神様から出ないで、世から出るからです。 世も世にある欲も、時と共に過ぎ去って行きます。永遠のものではないからです。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。神様を知ったその人の内には神の愛が入ってくるからです。

ですから、「 神の内にいつもいる」と言う人は、イエス様が歩まれたように自らも歩まなければなりません。それが、「新しい掟」です。イエス様こそ罪のない方であり、私たちが見習うべきお方であり、そして私たちが罪を犯したときにも弁護してくださり、そして私たちの罪を贖ってくださる方なのです。そして、その「新しい掟」は「古い掟」で教えられていた、神様の御心を行う事なのです。