コヘレトの言葉1:1-18
風を追うようなこと
1.コヘレトとは?
ダビデの子であり、イスラエルの王と書かれていることからすると、ソロモンが書いたことになります。
紀元前10世紀代にソロモンが残したとされる、雅歌、箴言とならぶ 一連の著作です。これらの書物には思想、様式、文体などの点で相違が認められますが、それぞれの書物は三つの時代に書かれたと説明されています。解説例:「青年時代に愛の歌を歌い(『雅歌』)、壮年期に知恵の言葉をまとめ(『箴言』)、経験を重ねた晩年に至って、この世のすべてを「虚しい」と断じた(『コヘレトの言葉』)というのである(『ミドラシュ・シール・ハ=シリーム・ラッバー』 )。」
近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されています。同書の著者あるいは編纂者は、当初よりこれを知恵文学を代表するソロモンを冠した書き物としたとみられています。また、研究者の多くが同書の成立年代を第二神殿時代のより後期だとしています。それは果樹園、お触れといったペルシア語由来の単語が記されているからです。(そもそも旧約聖書自体の成立時期は、エルサレム帰還後にモーセ五書ができているので、紀元前458年から428年ごろ。コヘレトの言葉は、その後の成立です。)
2.空しいこと
☆ テーマ1:限りなく続くこと・・・それは何をもたらすのだろうか。(空しい事ことである)
・ 太陽の下、人は労苦するが /すべての労苦も何になろう。
・ 一代過ぎればまた一代が起こり /永遠に耐えるのは大地。
・ 日は昇り、日は沈み /あえぎ戻り、また昇る。
・ 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。
・ 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく /どの川も、繰り返しその道程を流れる。
☆テーマ2:労苦、永遠でない一代、日、風、川の流れは、もの憂い、これからもあり、だれも心に留めはしない
・何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず/目は見飽きることなく/耳は聞いても満たされない。
・かつてあったことは、これからもあり /かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
・これから先にあることも /その後の世にはだれも心に留めはしまい。
テーマ1、2はマトリックス状になっています。この様に列記してみると、何になるでもなく、同じことが繰り返されていて、これからも繰り返していきます。それを指して「空しい」と言っているわけです。
3.風を追うようなこと
『1:13天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。』 コヘレトは、いろいろな出来事を分析してみましたが、すべてが何になることではなくただ繰り返されていたと気づきます。何も新しいものは得られない空しさ。それはまるで、風を追うようなことだったのです。『1:15 ゆがみは直らず/欠けていれば、数えられない。』は、知恵をもってしても、神が曲げたものは直すことができません。そして、欠けているものを数えることもできないことを、むなしい事の最後に付け加えています。持っているものは数えられますが、持っていないものは数えることができないのです。
(参考:7:13 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。)
『1:16 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、1:17 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。』
知恵と知識を求めたコヘレトは、ソロモンと同一人物なのでしょうか?。ソロモンは「神の知恵」を用いたのですから、アプローチが真逆に見えます。結局、コヘレトは知恵と知識では、何も捕まえることができなくて、まるで風を追うような愚かなことだとの結論に至っています。
『1:18 知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。』
さらにむなしさを付け加えます。知恵や、知識が狂気である理由に気が付いたのでしょう。人の知恵や知識では、何も解決しないばかりか、さらに悩みが深まり、痛みが増すばかりだということに気が付いたのです。知恵が深まれば何とかしようとし、知識が増せば気が付かなかった痛みに心が奪われます。